名前と銅橋の恋は、正月からなんの進展もないようでいてゆるやかに進んでいた。名前は銅橋とふたりきりになっても緊張しすぎずに笑えるようになっていたし、銅橋もそんな名前を前にすると心の奥底から色鮮やかな蝶が飛び立っていくような、いままで味わったことのない気持ちにふれることができた。 あいだに挟まれた真波がときおり「もう付き合ってるんじゃん」と心の底で思うことなど知らないふたりがまたひとつの転機を迎えたのは、二月の頭のことだった。 二月といえば、そう、バレンタインである。どこもかしこもバレンタインの宣伝をし、洋菓子店はもちろん、和菓子や服飾を扱っている店もこぞって「バレンタインには我が店の商品を」と宣伝している。 バレンタインを意識するようになった二月、部活終わりの部室前の廊下で名前がおずおずと泉田に話しかけた。もう日が沈んで暗く、廊下の隅からひんやりとした冷気とほの暗さが忍び寄ってきていた。 いつもより早く制服に着替えている名前と、いまから着替えようとしている泉田の格好はいつもと反対で、泉田の背中をくすぐったいような不思議な感覚が駆け上がった。もう部員もほとんどいないのにこの時間に名前が制服なのが珍しいのは、いつも彼女が遅くまで残ってくれている証だ。 泉田に次いで黒田と葦木場も引き止めた名前は、ほんの数秒両手の指をいじったが、すぐに離して意思の強いひとみで泉田を見上げた。背の高い葦木場の影に隠れてしまっていた真波が顔をだし、その数歩先を歩いていた銅橋が振り返った。 「泉田さん、今年のバレンタインはどうしたらいいでしょう。引退したマネージャーの篠崎さんは、マネージャーがいるときに部員全員に手作りチョコを配ったことがあると聞いています。篠崎さんに確認しようとも思ったんですが、受験直前なのでさすがに応援のメール以外はできなくて。チョコ、作ったほうがいいですか」 泉田は、名前に言われるまでバレンタインやチョコレートのことを気にしていなかった己を恥じた。いくら部員が多くてどうしても目が行き届かないことがあるにせよ、それは極力減らすべきであり、名前はこの男所帯の部活を支えてくれている、唯一のマネージャーであり女なのだ。 部員はお互い気にかける存在が多少なりといるが、名前はそれが極端にすくない。一緒に仕事をして変化に気づいてくれる先輩マネージャーもいない。名前が入部してからたった五ヶ月たらずで裏方すべてを任され、必死でがんばってくれていることに甘えてはいけないのだ。 「言い出してくれるまで気づかなくてすまない。たしかにマネージャーからチョコレートをもらったことはあるが、マネージャーが三人はいたときだったと思う。いまは名字さんひとりなんだし、ただでさえ仕事が多いのに、これ以上男の勝手な欲望でやることを増やすわけにはいかない。チョコレートは作らなくていいよ。もしなにか言われたらボクから部員にきちんと言おう」 名前がほっとして息をはき、泉田に礼を言った。いくら名前が勤勉で真面目だとはいえ、高校生の寮暮らしでいきなりお菓子や料理を作れと言われても、うまく作る自信はなかった。 安心するように微笑みかけた泉田は、もう部活が終わることもあり、いつものように厳しい主将の顔はしていなかった。顔を赤らめた名前が泉田を見上げたが、絶妙な上目遣いになっていることに気づいたのは黒田だけだった。名前でさえそれに気づかないまま、黒田と葦木場も引き止めた理由を話しはじめた。 「泉田さんはいま節制中でしょうか? 日頃のお礼を兼ねて、よければ少量でもチョコレートを渡したいんたいんですが……」 「少量なら構わないよ、ありがとう」 「黒田さんと葦木場さんはどうでしょうか?」 頷いた黒田と葦木場が頷いて喜びを口にしたのを聞いて、名前の顔はほころんだ。 主将として申し分ない泉田が心無いことを言われていたり、黒田が去年真波にやぶれたことをいまだに事あるごとに言い出す先輩がいたり、エースとして自覚があり前に進んでいる葦木場が謹慎処分だったことを持ち出しては裏でなにか言う部員がいたり、そういった人に見せない苦労があることを、わずかだが名前も知っていた。人見知りでうまく話せない名前を気にかけてくれている日頃のお礼を、ほんのすこしでもしたかった。 「えー、名字さん、オレは?」 「真波くんにもあげるよ。それじゃあ先に帰ります、お疲れ様でした」 頭を下げて軽い足取りで帰宅する名前が去った場に残るのは、右手を伸ばしかけたままかたまっている銅橋と、それを見る泉田たちだけだった。 銅橋が「オレにはないのか」というたった一言が口にできないでいるうちに、名前は銅橋のほうへ視線すらやらず、銅橋がいないかのように会話を終えて去っていった。まるで追い出し走行会前のような態度に銅橋はついていけず、思考回路は回転していると見せかけて止まっていた。 あまりに長くフリーズしている銅橋を見かねて、黒田が話しかける。 「名字になんかしたか」 「なっ、なにもしてないっすよ!」 「なにもしてねぇからじゃねーの?」 もっともな言葉に銅橋の動きがふたたび止まる。たしかにふたりで初詣に行ったあとから進展はないといえた。だが部活中に目があえば微笑みあったし、昼食中にふと手がふれたり近い位置に顔があると、慌てて距離をとってお互い赤面しながら謝りあった。あれはどう考えても熟しきっていない恋をどう扱ったらいいかわからない、お互いに矢印がむいている恋人未満の反応だ。 銅橋が自分をなぐさめていることを知らず、葦木場が悪気はなく思い出したことを口にした。 「バッシー、名字さんにいつでも次の恋愛していいって言ってたもんね」 「ぐっ」 「次の恋愛したって、それをバシくんに言う義務もないし」 「うぐっ」 「女が勇気だして告白したのに進展なしは辛いだろうな」 黒田のせりふがトドメとなり、もはや声さえ出ない銅橋の肩を叩いたのは泉田だった。からかいすぎだといささか目に力をこめると、黒田は肩をすくめ葦木場はおろおろし、真波はへらっと笑った。 「ボクは、名字さんが銅橋になにも言わず次の恋愛をはじめるとは思えないし、そう簡単に恋する相手を変えるとも思わない。きっと恥ずかしかったんだろう。銅橋だって、もしバレンタインにチョコレートを作って名字さんに渡すとなると恥ずかしいだろう?」 頷いた銅橋は、名前の本音を知らないまま物事を決めつけるのはよくないと、とりあえず考えるのをやめることにした。 銅橋をなぐさめるために言った泉田の言葉は大当たりだった。逃げるように去った名前の気持ちを知っているのは真波だけだった。 着替えるために部室へ歩き出した銅橋の横にさりげなくすべり込み、真波は何気なさを装って質問した。 「バシくんってあんまり甘いもの食べてるイメージないけど、チョコ好きなの?」 「べつに嫌いじゃねーよ。からあげとか焼豚とかのほうが好きなだけで、疲れてるときは食ったりするし」 「甘すぎるチョコがむりってこと?」 「そうだな、甘すぎんのも嫌だけど、98%カカオみたいな苦いやつも食えねえな」 「ふーん」 真波が会話を打ち切る。また名前のことを考えそうになって、振り切るように大股で歩く銅橋のうしろで、真波はケータイを取り出してメール画面を開いた。宛先を名前にし、短く必要な言葉だけを打つ。 漢字に変換するのさえ省略したような「ばしくん、ふつうのチョコがすきだって」というメールを受け取り、名前はひとり寮の入口のまえで握りこぶしを作った。そして、何個かピックアップしていたチョコレートを使ったお菓子のレシピをすべて試すことが決定した瞬間でもあった。 ← → return ×
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