卒業式の今日は部活も自主練習だったが、部員のほとんどは部室にやってきて卒業する先輩たちと最後の別れを惜しんでいた。
 名前は動きを止めることなくジュースやお菓子を用意し、唯一の先輩マネージャーである篠崎と話せる機会をうかがっていたが、明るい篠崎は人気があり絶えず人が話しかけていた。もう少ししたら話せるだろうと残念に思いつつゴミでいっぱいになった袋をまとめている名前は、まさかその篠崎が自分の話をしているとは思ってもいなかった。

 受験を終えての合格発表、入学手続きや引越しの準備などを終えた篠崎は、ようやくじっくり名前の恋のことを聞いていた。福富たちが、篠崎ならば名前の恋を知っているだろうという前提で話しかけて発覚した一連の流れは、篠崎にとっても青天の霹靂だった。
 受験勉強のためあまり学校に来なかった篠崎や、名前の告白の場に居合わせた福富たちにとって、卒業するにあたって一番気がかりなことは名前と銅橋の恋だった。部活のことは後輩たちに任せ、今年のインターハイでは必ず優勝するだろうというどっしりとした信頼はさすがだったが、名前に関しては気弱になってしまうのは、恋が人の気持ちのみが結末を左右する未知の世界のものだったからだった。
 篠崎がお菓子を食べながら、コップに入ったジュースを揺らす。福富、新開、東堂、荒北、そして篠崎がかたまって神妙な顔をしているせいか、あらかた挨拶をして別れを惜しんだ後輩たちは近づこうとはしなかった。

「なるほどね。一緒にお昼を食べたり帰ったりしてるっていうのは聞いてたけど、クリスマスプレゼントを交換する程度の仲にはなったってことだよね」

 福富たちにとっては、新開が銅橋にクリスマスプレゼントのことを相談されたというのが最後の情報だった。篠崎は女らしい観点とカンで、名前と銅橋の関係を見抜いた。

「あれは恋人同士にはなってないよ。銅橋は名字さんの片思いには気づいているけど、はっきり返事をしたわけじゃないみたい」
「なぜわかる」
「福富はそういうの疎いもんね。ほら、ふたりの距離を見て。お互い積極的に話しかけてるわけじゃないけど、名字さんは銅橋のことを見てるし、銅橋だって名字さんに男子が近づくと気にしてるでしょ」

 なんと焦れったい。さっさとくっついちまえばこっちの心配も減るのにと、荒北がときめきのかけらもないことを言って東堂に小突かれる。

「言っただろう、名字さんは告白する気などなかった。卒業するまで話しかけず、それでもずっと思い続けているような展開になっていたかもしれんのだぞ。ここは名字さんの奥ゆかしさを尊重しないとうまくいかないに違いない」
「でもふたりとも少しは進展してるのは間違いないぜ。ほら、名字さんの髪についてるやつ、たぶん銅橋があげたやつだろ」

 新開の言葉にいっせいに名前へ視線が向けられる。髪は可愛らしいシュシュで結われており、しかも、名前の視線はちょうど銅橋に向けられているところだった。銅橋も名前を見ていて、ばっちり視線があったふたりの続きが気になる光景は、銅橋が先に目をそらして終わった。
 わずかにショックを受けたような顔をした名前だったが、前を向いたときにはもう普通の顔をしていて、引き締められたくちびるだけが名前の気持ちをあらわしていた。銅橋が名前に近づく。福富たちもさりげなく近づく。

「おい、ずっと動きっぱなしじゃねえか。すこしは休んで菓子でも食え」
「でも、マネージャーはわたしひとりだから」
「マネージャーは雑用係って意味じゃねえぞ。ジュースでも菓子でも、子供じゃねえんだからみんな勝手に食うだろ」

 銅橋に促されて椅子に座った名前は、自分でも気づかないうちに疲れていたことに気づき、細く長いため息をついた。すかさず銅橋が紙コップに入ったジュースとお菓子を、名前の前の机に置く。
 そこへ真波もやってきて三人で話しだし、銅橋が先輩に絡まれだしたころ、荒北が銅橋を呼び出した。去年の三年のインハイメンバーとマネージャーと円になった銅橋が緊張を隠せずに要件を尋ねると、福富が切り出した。

「名字のことだ。オレの言葉で、名字にはしなくてもいい苦悩をさせてしまった。名字の恋が実るのなら嬉しいが、それを強要することはない。せめて卒業する前に銅橋の本音を聞かせてくれないか」

 福富の言葉と、卒業する先輩たちに真剣な目を向けられ、銅橋が一瞬ひるむ。
 自分の気持ちを口に出すことは苦手だったし、それが色恋沙汰となるとなおさらだった。だが、もう卒業する先輩たちにいらない心配をさせることはできない。
 言葉を選びながら慎重に口を開いた銅橋の頭に浮かぶのは、あの寒い日に手紙を握りしめて世界を変えた名前の涙だった。

「オレ、結婚すんなら名字みたいなやつがいいって思うようになったんですけど」

 結婚。いきなり結婚。恋人も婚約者もすっ飛ばしての結婚発言をいち早く理解したのは篠崎だった。

「たしかに、名字さんは頑固だけど筋が通ってるし、控えめで三歩下がって夫を支える、理想の妻になるかもしれないね」
「べつにそこまでしなくてもいいんスけど、なんとなくそう思えてきて」

 それはもう名前と結婚したいということでは?

「名字ってすげえ一途そうだし、こんなオレをかっこいいって信じきってるし、結婚するって決めて付き合うくらいじゃなきゃ名字に失礼だろ」

 銅橋の目は、もう地面をさまよってはいなかった。福富の目をまっすぐ見て、名前の気持ちに釣り合うだけ自分の気持ちが大きくなったら告白を受け入れるのだと、はっきりと告げた。
 東堂が高らかに笑って銅橋の背中を叩く。

「そうかそうか、それを聞いて安心したぞ。では銅橋は名字さんのことを好きなんだな?」
「それはまだ……かたまってないっつーか」
「はァ!?」

 大きな声をあげた荒北の頭を篠崎が叩いた。これ以上銅橋が萎縮してしまわないよう、できるだけ優しい笑顔を向ける。

「大丈夫、わかってる。まだ名字さんを好きなのに気づいてないだけだよね」
「それフォローになってないんじゃないか?」

 新開の言葉に篠崎がちいさな声を漏らす。やってしまったと顔に書いてある篠崎は、あらたまって咳をして銅橋の肩をかるく叩いた。

「名字さんをよろしくね。今年もマネージャーは入部してもあんまり残らないと思うから支えてあげて。レースに出ない裏方は、そのつらさを分かち合える人がいないと続けていけないから」
「はい。名字はオレが守ります」

 守るものができたとき人は強くなるというが、銅橋の目にそれを垣間見たのは篠崎だけではなかっただろう。
 銅橋のなかでの名前は、しっかりしていて自分を支えてくれるが、それゆえに守らなければいけない存在だった。ひたすら仕事をこなし、我慢強く限界まで耐えて、自分の前ではどこか抜けているのだ。そんな名前のことを、どうして愛しいと思わずにいられよう。
 持っていたお菓子を食べ終えた新開が、真波と話していた名前を呼ぶ。ついてきた真波もとなりに迎えて、新開はウインクした。

「オレたちは今日で卒業だ。写真でも撮ろうぜ」

 名前が準備していたカメラを差し出し、近くの部員に写真を撮るよう頼んで全員で写真を撮る。撮りおえたあと、篠崎と話しながら部屋に飾ろうと顔をほころばせる名前の背中を真波が押して、篠崎がカメラを構えた。

「ほら、せっかくだから一年トリオで撮ろうよ。名字さんが真ん中で真波と銅橋は屈んでね」

 慌てる名前の横に、いつもより近い位置に銅橋が陣取る。自然に笑えている自信がない名前が、カメラのシャッター音が聞こえて緊張しながらもほっとしたとき、荒北が続けた。

「おい銅橋、まだ動くんじゃねえぞ。ついでだからふたりで撮っとけ」

 露骨で隠す気もない荒北のアシストに名前の顔がこわばるが、おそるおそる確認した銅橋の顔には嫌悪は浮かんでいなかった。
 もう一度屈んで名前と顔の位置を合わせて横を向き、顔の近さに体の温度をあげながらカメラのほうを向く。

「……オレとふたりで写真を撮るのは嫌かよ」
「い、嫌じゃないけど、銅橋くんは嫌じゃないの?」
「嫌だったらこんなことしてねェよ」

 鼻がつんとして、泣いてしまいそうだと名前は思った。
 泣くのをこらえてうつった笑顔の写真は、名前の新しい宝物として部屋をあたたかく彩るのだった。


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