「それって死亡フラグっていうんですよ! 大変じゃないですか!」


 あわわ、と慌てる小野田は珍しく声を荒げて田所に詰め寄った。死亡フラグが何かわからないまま勢いにおされて返事をした田所は、口をすべらせて名前とのことを言ってしまったことを後悔した。
 いくら不安だからって、大胆なことを言ってしまったからって、こいつらに言ってなにかが変わるわけでもない。吐きだしたことで心が軽くなったことは確かだが。


「戦場で恋人の写真を見たり、ホラー映画やミステリーで一人で部屋にこもったり、そういう人は死んじゃうんですよ!」
「お、おう」
「田所さんならきっと大丈夫だとは思いますけど……」
「なに言うてんの小野田くん、オッサンは殺しても死なへんやろ!」
「なんだと豆ツブ!」


 鳴子の頭をぐりぐりと押さえつけると、きゃんきゃんと文句を言われた。横で小野田と杉元が慌てていて今泉が呆れながらそれを見ていて、手嶋と青八木が笑っている。巻島と金城は根拠なく「名字と田所なら大丈夫だ」と自信たっぷりに言って微笑んで、ロードバイクを整備しながら古賀が静かに笑う。

 ――どうして今そんなことを思い出したんだろう。総北のジャージははるか彼方、背中のグリーンゼッケンがのしかかってくる。
 巻島は、きちんとオレを置いていった。きちんと、オレ一人だけになった。

 ちくしょう、夢のインターハイが二日目で、こんなところで終わるかもしれないなんて、考えたくもねえ。
 だけどああ、こんなことになるんだったら、名字に言っときゃよかった。オレの気持ちと、本当はインターハイを見に来てほしかったこと。そんなこと言っても名字が見に来るのは無理で、見たい気持ちをなんとか押し殺していたあいつをきっと困らせてしまっただろう。
 だけどオレは見て欲しかった。予選では名字に見せることが出来なかった、最後の一滴まで振り絞るような本気をだしたファーストリザルト。そしたらきっと、あの時こそきっと──。

・・・

 もう暗くなりつつある夕闇のなか、正門でそわそわと待っていた名前は、賑やかな話し声が近付いてきて顔をあげた。耐え切れずに走り出した名前に気付いた部員と田所が立ち止まる。


「名字!」
「迅さん! それにみなさんも、本当におめでとうございます! 奥様に早く行っておいでと言ってもらって、迷惑かもしれないんですけど待ちきれなくて……」
「いや。ありがとな」
「私、信じてました。迅さんが言ったなら、きっと優勝するって。きっと、てっぺんに立つんだって」


 田所は、不思議な気持ちで名前を見た。名前と一緒にいると心臓がうるさくて些細な仕草さえ目で追ってしまって、まさしく恋だというような恋をしているのに、たまにこうして優しい気持ちになる。片思いの高鳴りから、長年連れ添った夫婦のように心が落ち着く。
 田所は後ろに総北のメンバーがいることも忘れて、名前に歩み寄った。心は変わらず穏やかだ。


「名字、オレの気持ちを聞いてくれるか」
「はい」
「名字が好きだ」


 思考が停止する。数秒たって首をかたむけた名前は、田所の真剣な顔を見て、ようやくじわじわと言われたことを飲み込んだ。


「っえ、あの、えっ……本気、ですか?」
「本気だ」
「だっ……駄目です! 迅さんの気持ちは嬉しくて、本当に……本当に、すごく嬉しいです。でも、迅さんにはきっと、もっとふさわしい女の子がいます。迅さんはいつか家業を継いで、きっとよく働くお嫁さんがきてくれるでしょう? 私では、とても……」


 悲しそうにうつむく名前とは反対に、田所はわずかだが嬉しそうな顔をした。名前の言葉の裏側に、自分を好いているが遠慮している気持ちがあるのを感じ取ったからだ。


「なんで名字だと駄目なんだよ」
「なんでって……私には弟がいます。高校を卒業して働いて、弟だけでも大学に行かせてあげたいんです。──迅さんの隣を歩けたらどんなにいいか。迅さんの出るレースを毎回見ることができたら、どんなに……。でも、それは出来ませんから」
「なんで出来ないんだよ」
「だ、から……いつか迅さんには可愛い彼女が出来ます。迅さんの選んだ素晴らしい人です、きっと結婚を考えるはずです。私みたいに弟が一番で貧乏な人が、そんな夢みたいなこと考えられません」
「なんだ、そんなことか」


 田所は笑った。苦しそうに言葉を吐く名前とは違い、晴れ晴れとした表情だ。


「言っとくが、おふくろも親父も、名字が嫁にきてくれればって考えてるんだからな」
「えっ? そんな、でも、私じゃとても……」
「いいから嫁にこい」


 ──その愛しい胸に飛び込みたい。私も好きだと言えたらどんなにいいか。
 それでも同年代の女の子と比べてしまってどうしても首を縦にふることが出来ないでいると、望んだ言葉がふってきた。


「オレは名字がいいんだよ。オレの隣を歩いてレースを全部見に来て、嫁になってほしいんだ。名字が嫌だっつっても言い続けるからな」


 名前の目に、じわりと涙が浮かんだ。つらいときも疲れているときも笑顔だった彼女の初めての涙を見て、田所がぎょっとしてうろたえる。
 名前は涙を浮かべながら、それでもなんとか微笑んだ。


「本当に……いいんですか? 弟が大学を卒業するまで、弟が一番ですよ。働かなきゃいけないからあまり会えないし、もっといい女の子がたくさんいるのに、私でいいんですか?」
「言っただろ。名字がいいんだよ」


 耐え切れないというように泣き出した名前を、田所は迷ったすえ抱き寄せて頭をなでた。
 こんなに小さな体で、どれほどのものを抱え込んでいたのだろう。この少女が愛しくてたまらなかった。


「もう、知りませんからね。私、意外としつこいんです。迅さんが私のこともういらないって言っても、しつこく追いかけますからね。撤回するなら今のうちですよ」
「名字こそ覚悟しとけよ。オレは有言実行するタイプなんだ」


 泣きながら名前が微笑んだ。もう暗くなった空の下、闇が落ちているのに綺麗に笑う。
 この清らかささえ感じる笑顔に惚れたのだろうと、田所は笑って愛しい体を抱きしめた。名前も笑って背中に腕を回す。
 恋を噛み締めるふたりが、真っ赤になって指の隙間から見ていた今年のインターハイ優勝者と目が合うまで、あと17秒。


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