「インターハイ予選?」 言い慣れない単語を繰り返してぱちぱちとまばたきした名前に、手嶋は頷いた。 「ああ、来週あるんだ。今年のインターハイは箱根で、しかも三日間ある。予選なら一日で終わるし、まだ行ける距離だからな。まあ、学校をサボることになるが」 「そうなんだ……」 貴重な情報を教えてくれた手嶋にお礼を言ってから、名前はあごに手を当てて考え込んだ。 名前はいくら忙しくても疲れていても、基本的に学校を休むことはしない。予習や復習やテスト勉強をする暇がなく、授業中に理解するのが一番無駄がないと考えているからだ。だから、授業を休むと睡眠時間をけずって復習しなければならない。 けれど、田所が走るところを見られるというのは魅力的だった。今まで朝練に行くときの後ろ姿しか見たことがなく、レースどころか本気で走るところさえ見たことがないのだ。 無理はするな、とかけられた声に頷く。田所はもう三年で、夏のインターハイを終えたら引退するだろう。 インターハイは、おそらく見に行けない。となると、田所が公式戦で走っているところを見られる最後のチャンスなのだ。 学校をサボるということは今までしたことがなかった名前だが、田所の走るところを見たいという欲はふくらむばかりだった。 ・・・ 「じ、迅さん」 か細く聞きなれた声で呼び止められたのは、インターハイ予選の会場でのことだった。 各自、集中力を高めたりウォーミングアップをしているなか、田所はトイレに行こうと歩いていた。レースの時間が迫ってくればトイレは混み出すから、まだ時間のあるうちに行っておかねばならない。 振り返った田所の目に映ったのは名前で、驚きで目を見開いた。いつもの制服姿で、どこか申し訳なさそうな顔をして田所を見上げている。 「名字……なんでここに」 「手嶋くんに、今日が予選だって教えてもらったんです。迷ったんですけど、迅さんが走ってるところを見られる最後のチャンスで、どうしても見たくて……インターハイは、行けそうにないので」 「学校はどうしたんだよ」 名前の顔がとたんに曇る。サボったとすぐにわかった田所は、名前の勉学に対する考えを知っているから余計に驚いた。 一日サボればそのぶん名前の負担が増し、あとの勉強に響きテストに響き、さらには授業料すら無駄になる。それらと自分の予選を見ることを秤にかけて、こちらを選んだというのか。 田所の胸に、言いようのない感情がじわじわと広がっていく。この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。恋では足りない。愛には足りない。ただ、愛しく思う気持ちが広がるばかり。 「……今日のレース、スタートとゴールは同じ場所だ。ゴールのある場所で見とけよ。偵察が来てるだろうからそこまで本気は出せねえが、真剣にやる。名字が見てよかったと思うような、それに恥じないような走りをする。だから……見とけよ」 「はい」 「終わったあと、なんとか時間をつくるから、待っててもらえるか。ゴールで」 「はい。待ってます」 名前が笑う。それを見た田所も笑って、心のどこかが軽くなったと感じた。 最後のインターハイへ行くための予選。去年の金城の怪我と、もしかしたら今年もというわずかな不安。予選は三年だけで出ることに決めて、それに対する自信もある。だが、万が一なにかがあったらという思いもぬぐいきれない。 それがさわやかな重圧によって消え去った。名前が見に来ている、それだけで。 「迅さん、私、ちゃんと見てます。信じています。だから……怪我したりしないでくださいね」 「任せとけ」 田所が片手をあげて自信たっぷりに笑えば、名前の顔がほころんだ。 前を向いて背筋を伸ばして、目的へまっすぐ走る。それを名前が手助けしてくれたような気がして、田所は清々しい気持ちで総北のテントへと歩き出した。トイレへ行こうとしていたことなど、すっかり忘れて。 ・・・ 名前に胸を張って一位だと報告できる予選のレースを終えたあと、田所は急いでゴールのあった場所へと向かった。大急ぎでロードバイクの整備などを終えたが、学校へ帰るまでもうすこししか時間がない。 息をきらして走る田所の目に、じっと待っている名前の姿が映る。 「名字!」 「迅さん! お疲れ様でした」 「ああ。どうだった」 「すごかったです! 月並みなことしか言えないんですけど、最後には圧倒的な力の差で勝ったのも感動しましたし、迅さんの走るところも素敵で……本当に、見ることができてよかったです。──ようやく、迅さんの走るところが見れました」 目を瞑って田所の走る場面を思い出す名前の顔は穏やかに微笑んでいて、田所も凪いだ心で笑った。自然と口から名前への思いが出てくるのを、おだやかに受け止める。 「名字。オレたちは今年こそインターハイで優勝する。そしたら聞いてほしいことがある。聞いてくれるか」 「はい」 「もし優勝できなかったら──いや、やめておく。今年こそ、オレたち総北がてっぺんに立つんだからな」 「はい。信じてます」 本当に信じきっている瞳で、名前もおだやかに田所の言葉を受け入れた。後片付けが進むなか、そこだけはふたりの空間で、お互いしか見えていない。 ……どう見ても両思いだからくっつけばいいのにと、田所を探しに来た巻島は思った。 どうやっても、自然にふたりに話しかける芸当なんて出来そうにない。金城が来てくれればと願うがそうタイミングよく来るわけもなく、数分してぎこちなく話しかけた巻島によって見られていたことに気付いた田所と名前は驚き、三人で赤面することになったのだった。 ← → return |