「あらっ大変! 迅ってばお弁当忘れていったわ」


 息子のお弁当箱を持った母が困ってため息をついたのは、お昼前のことだった。すぐ気付けば渡せたかもしれないが、休日で忙しく気付くのも遅くなってしまった。
 店長とパートのひとりと名前が、揃って大きなお弁当箱を見る。田所の食欲は周知の事実で、これを食べたあとにさらにおやつと称してカツカレーをぺろりと平らげる姿が何度も目撃されている。
 名前も、二度ほど一緒に食べた昼食のときに、田所の食欲は確認済みだ。


「名前ちゃん、悪いんだけどこれ迅に届けてくれないかしら? 休憩1時半までとっていいから」
「そんな、いいです。届けたらすぐ帰ってきますから」
「大丈夫よ、まだ清水さんがいてくれるし、お父さんも手伝ってくれるから」


 清水と呼ばれたパートは、笑顔で頷いた。この人も、付き合いの長い田所の若い恋路を応援しているのだ。
 名前はずっしりと重いお弁当を受け取ったが、すぐ帰ってくると言って譲らなかった。まだ11時半で、いくらのんびり学校へ行ったとしても、いつもより休憩する時間より長くなるからだ。すぐに帰ってきます、と言う名前を送り出し、店に残ったふたりは顔を見合わせてにんまりと笑った。
 田所と名前がくっつくチャンスを逃すほど、ふたりは甘くはなかった。

・・・

 名前が学校についたのは12時すこし前だった。ちょうどいい時間だけれど、行ったことのない部室を前にするとどうしてもまごついてしまう。
 どうしたものかとうろうろしていると、ちょうど部室から出てきた手嶋と青八木と目があった。


「名字? どうしたんだ、田所さんか?」
「うん、お弁当届けに来たの。部室にいる?」
「ちょっと待ってろ」


 手嶋が再び部室に入っていき、名前はほっとしてから青八木に笑いかけた。
 お疲れ様、というやわらかな声に青八木が頷く。手嶋ほどではないが、名前もなんとなく青八木の言いたいことがわかるようになってきていた。


「名字もお疲れ」
「ありがとう、でも私は疲れてないから」
「でも」
「おう、名字。わざわざ悪いな」


 青八木の心配した言葉は、部室から出てきた田所によって掻き消えた。それに少しほっとしながら、名前は田所にお弁当を差し出した。


「名字も一緒に食ってけよ。おふくろからメールが来たんだが、休憩1時半までなんだろ?」
「いえ、私はすぐ帰りますので」
「いいから食ってけ。じゃないとオレの小遣い減らすって言われてよ」
「えっ」


 驚いた名前は、やがて仕方ないというように頷いた。田所の小遣いを減らすわけにはいかない。
 田所は金城に了解をとったこと、いつもの三年のメンバーと名前とで食事をとることを伝えた。さすがに「あの女子は誰だ」という空気のなか、ふたりで食事する勇気はない。
 もう一度部室に入り金城と巻島に名前が来たことを伝えた田所は、部室の窓から名前と手嶋と青八木が楽しそうに話すのを見つめた。自分よりよっぽど仲が良さそうで、オレといるときのようなわずかな緊張がない。首をふった田所は、金城と巻島と一緒に部室を出た。可愛がっている後輩に嫉妬だなんて、見苦しくて誰にも知られたくない。


「名字、待たせたな」
「いえ、私こそお昼に邪魔してしまってすみません」
「帰ったらおふくろに文句でも言うか」
「そんな、文句だなんて。迅さんとお昼を食べれて、私は嬉しいですから」


 にっこりと笑って言った名前だが、田所の顔を見て赤くなる。赤くなって下を向いているふたりを見守る部員の視線は、からかいを含んではいるもののやわらかい。
 ハッとした田所が名前を促し、部室からすこし離れたところに並んで座った。ペダルを回してカロリーを消費した体は、素直に栄養を欲している。
 それぞれのお弁当を広げ、おしゃべりをしながら昼食を楽しむ。名前が三人の会話に入ることはあまりなかったが、今まであまり聞けていなかったロードバイクの話を聞いては楽しそうに笑っていた。


「じゃあ迅さんはスプリンターで平坦が得意で、巻島さんはクライマーで坂道が得意で、金城さんはオールラウンダーでぜんぶが得意なんですね」
「そういうことだな」
「そうだったんですか! スプリンターってかっこいい響きだなって思ってたんですけど、意味はわかってなくて」


 ぱくりとおにぎりを食べる名前に、田所がひとつサンドイッチを差し出す。それはふたりで昼食を食べるときの恒例のようになっていた。遠慮する名前に田所が押し付けて、最終的にふたりでサンドイッチを食べるのだ。

 田所はたくさんあるお弁当をぺろりと平らげ、お茶を飲み干した。
 いつもなら少し休憩してから愛車をいじったりするのだが、今日は名前がいるからそういうわけにもいかない。そんなことをすれば、名前は遠慮してすぐに帰ってしまうだろう。しかし話術が巧みなわけではないし、どうしたものか。
 考え込む田所の肩に、なにかが当たる。何気なく横を見た田所は、そのまま硬直した。

 ……名字が、オレの肩にもたれかかって、眠っている。
 うとうとして傾いたであろう体は巨体に預けられ、すこしでも動けばバランスを崩して地面に倒れ込んでしまいそうだ。体をこわばらせ名前を見つめながら、田所の頭のなかはすさまじいスピードでどうすればいいかを模索している。


「ん……」


 名前の口から、ため息のような声がもれる。いつも疲れを見せない顔は、よく見れば目の下に隈が出来ていた。疲れきって寝ていることがわかって、田所はふっと笑った。
 いつもどこかで、名前の疲れをすこしでも癒すことができればと思っていた。肩を貸すことでよく眠れるなら、いくらでも貸そうじゃないか。
 ようやく肩の力を抜いた田所は、名前が落ちないようにすこし体の位置を変えた。それからにやにやと見てくる部員の視線にようやく気付いて顔を真っ赤にしたけれど、それでもそこを動こうとはしなかった。


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