「ねえ名前ちゃん、一回だけ呼んでみてもらえない?」 困ったように笑う名前を田所が見たのは、ある日の早朝のことだった。珍しく店の準備が早く終わったらしく、母親と名前はほんのひと時の安らぎを楽しんでいる。 「なにやってるんだ?」 「田所さん、おはようございます」 「迅、ちょうどいいところに。名前ちゃんに奥様って呼んでみてほしくて、いま頼んでるの」 「奥様ァ?」 いきなりの単語に、すこしばかり寝ぼけていた頭がはっきりしてくる。名前が困っていた理由がわかって、呆れながら母親を注意した。 「なに言ってんだ。名字、無視していいぞ」 「お父さんは、頑固親父って呼んでほしいって」 「なんでだよ……っつーかオヤジも一枚噛んでるのか」 どう呆れていいのかわからなくなりそうだ。田所は頭を抱えたくなりながら、馬鹿なことを大真面目で言う母親を見つめた。笑顔だが本気の顔をしている。 「一回でいいから、奥様って呼ばれてみたかったの。迅は呼んでくれないし」 「当たり前だろ」 「だから名前ちゃんに」 「名字、断れ」 名前は瞳に期待を込めた母親をちらりと見るだけで、田所の言葉に頷きはしなかった。ほんのすこしだけ迷ってから、おずおずとふたりを見上げる。 「お世話になってますし、奥様って呼ぶくらいなら……」 「名前ちゃん! もう一回呼んでくれる?」 「お、奥様……」 「名前ちゃん……!」 感激で瞳を輝かせる母親の後ろにいつのまにか人影があって、田所はぎょっとして父親を見つめた。いつのまにそこに……。 「あ、お父さんいいところに。いま名前ちゃんに奥様って呼んでもらったのよ」 「オレは頑固親父だ」 「あ、はい。頑固親父……さん?」 寡黙な父親の顔がわずかに明るくなる。そこまでして呼ばれたかったのかと、田所はある意味のんきな両親を見つめた。 開店前の忙しい時間、準備が終わったからといってする会話の、なんとのんびりしていることか。だが自分にもその血が流れているのであり、こののんびりした空気に頬がゆるむのも確かだった。 「じゃあ名前ちゃん、迅のことも名前で呼ばなきゃね。なにしろここにいるみんな田所なんだから」 言われてみれば確かにそうだと、名前はおかしそうに笑った。だが田所を名前で呼ぶとなると、先ほどのようにすんなりといかない。照れが混じって、どうしても口ごもってしまう。 「名字、嫌なら無理すんな」 「嫌なわけじゃないです。ただ……男の人を名前で呼ぶのって、慣れてなくて」 男の人。 なんでもない言葉に、田所の頬が熱くなっていく。初々しいふたりを眺める両親のあたたかい視線に気付かず、田所は場の空気を変えるためわざとらしく咳払いをした。 「すみません、本当に嫌じゃないんです。あの、田所さんこそ嫌なんじゃないかと……」 「……嫌じゃねえよ」 田所の熱が伝染して、名前の頬も赤くなっていく。 ふたりでもじもじと視線を合わせ、一歩踏み出すのをためらう。それは見ている者も甘酸っぱくなるような青春のまたたきで、店中に空気が広がっていく。 「嫌じゃない、なら……迅さんと呼んでもいいですか?」 「……おう」 いつもはきはきとして明るい名前のおずおずと窺うような視線と声に、田所はわざとそっけなく答えた。そうしないと照れて返事もできないと思ったからだ。 名前にもそれが伝わって、そっと目を伏せた。ほんのり染まった目尻に、目が離せなくなる。 「さ、そろそろ仕事を再開しましょうか」 母親としては、いままで自転車ばかりで恋というものから遠ざかっていた息子の恋路を見守っていたかったが、開店時間がせまってくるとそうのんびりもしていられない。見守られていることに気づいていなかった若いふたりはびくりと体を震わせ、顔を真っ赤にさせた。 今のこっぱずかしいやりとりを全部見られていたかと思うと顔から火が出そうだ。 「今日は早く終わったから、迅はもう練習してきていいわよ。名前ちゃんはこっちを手伝ってね」 「はい」 そそくさと離れるふたりだが、田所が店から出る一瞬に視線が絡み合う。たったそれだけで、ふたりは先ほどのことを思い出してまた赤くなるのだった。 ← → return |