「おはようございます!」


 すこし寝ぼけたまま開店前の店へと来た田所は、ぎょっとして立ち止まった。なぜ名字がここにいるのかと思ったが、数秒して今日からバイトに来ることを思い出す。
 面接をした田所の母にもOKをもらった名前は、無事にこの田所パン屋で働くこととなった。忙しい開店前に一時間だけ来られないかと駄目元で言ってみた母親の提案に名前は喜び、ぜひ働かせてくださいと頭を下げたのだ。いままでパートも来ていなかった時間に家族以外がいるのは不思議な気持ちで、どこか照れくさかった。


「……はよ。何かしているところか?」
「いま来たところで、田所さんに教わるように店長に言われています」


 店長とは、田所の母親のことだ。
 パンを作るのは主に父親だが、いまは母親もサンドイッチを作っていて忙しい。店内の掃除や品出しなど田所がしていることを覚え、おいおいサンドイッチ作りなども手伝ってもらえたら、というのが母親の希望だった。
 今時の高校生らしくなく、働かせてくださいと笑顔で言う名前に、母親は早くも好感を持っていた。

 田所はまず清掃の仕方を教えながら、どことなく母親が名前を気に入っているのがわかる気がすると思った。
 バイトに受かったあと自力で田所のクラスを探してお礼を言いに来た名前は、働けることが出来て本当に嬉しいと笑顔で頭を下げたのだ。やる気がないよりは、あるほうが断然いい。今だってメモをしながら細かに質問してきているし、任せられるのもそう遠いことじゃないのかもしれない。
 だが、いままで家族しかいなかった時間に他人がいるというのは、慣れるまで時間がかかりそうだった。いるのは女子で、しかも歳はそう離れていない。
 どうしても意識してしまう自分を叱りながら、田所はやり方を教えてあとは名前に任せてみることにした。朝の忙しい時間に、どうしても名前にそこまで時間をかけることが出来ない。
 慣れないながらもそこそこ手早く終わらせていく名前に、田所は母と同じく早くも好感を持ちそうになっていたが、思春期の男子が女子に好感を持つとなると違う意味を持ってきそうで、早々にその思いを振り切った。

・・・

 朝練後、まだ時間に余裕があるなか部室でゆったりと着替えながら、田所は思いつきで手嶋に尋ねた。


「そういえば手嶋、名字ってやつ知ってるか?」
「名字? 名字名前ですか?」
「おう、そいつ」
「田所さんが知ってるなんて意外ですね。そんなに有名なんですか」
「有名?」
「両親がいなくて、弟をひとりで養ってるって聞きましたよ。同じクラスだけど毎日急いで帰るし休み時間はほとんど寝てるし、バイトもかけ持ちしてるって聞きました」


 だから「働かせてくれて嬉しい」と言って「バイトのかけ持ちは大丈夫か」と確認してきて、パートの人さえ来てくれない朝の一時間のバイトに来てくれて、お腹をすかせていたのか。
 腑に落ちた田所は、疲れなどいっさい見せず笑っていた名前を思い出し、はっと我に返った。
 これではまるで触れられたくない部分を詮索しているようではないか。自分だって知らないところで自分のことを聞かれていたら嫌だというのに。


「それにしても、田所さんが名字に興味を持つなんて」


 手嶋の言葉に含まれたわずかな色恋沙汰をにおわす声に敏感に気付いた田所は、慌てて首を振った。


「そんなんじゃねえよ。バイトとして雇ったんだ」
「田所さんのパン屋でですか?」
「おう」


 だから気まぐれで聞いてみたと言わんばかりの態度で着替え終わった田所は、シャツの襟を正した。手嶋のとなりで話を聞いていた青八木も、納得したように田所を見つめる。

 ……なんだか、くすぐってぇなあ。
 先日名前にパンをあげた場面を見ていた巻島と金城からの視線は生ぬるいし、頭のいい手嶋は完全に納得していないとわかるこの視線は少しばかり含みがある。
 恋愛よりもロードバイクが基本なこの部活ではたしかに物珍しくいろいろと探りたくなるだろうが、誰ひとりとしてからかってすらこない。それがまたむず痒くて、田所はすこし乱暴にカバンを持った。


「ま、名字が長続きするかはわかんねえけどな」


 今日は名前に、パンの値段が書かれた一覧の紙を渡した。パンを見て自分で値段を入力しなければならないレジを教えるには、まずパンの値段を覚えるのがスタートラインだ。
 だがなんとなく、名前はバイトをすぐにはやめないような気がする。パンの値段を覚える頃にはこの生ぬるい視線がなくなっていますようにと、田所は切実に願った。


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