空っぽの胃は限界だった。ぐうぐうとひっきりなしに空腹を訴えてくる音を無視しようとするが、食べるものがないとわかっていると余計にお腹がすいてくるような気がしてくる。
 お弁当やパンのにおいで満ちている教室から逃げ出すように出てきた名前は、ふらふらと外をさまよった。一日くらいなら昼食を食べなくても大丈夫かと思ったが、健康な体は律儀に食べ物を欲している。
 ベンチにふらりと座った名前は、二人分ほど離れたところに男子生徒が座っているのをぼうっと眺めた。三人組の生徒のひとりは何人分かと思うようなパンを食べていて、思わず目が釘付けになる。慌てて目をそらすが、もう遅い。昼休みにはどこにいってもご飯を見ることを思い知った名前は、立ち上がる気力もなくうなだれた。お腹がなる。
 もう寝てしまおうか、それともまた水でも飲んで空腹を紛らわせようか。ぼうっと考える名前に一番に気づいたのは、一番近い場所に座っていた田所だった。細かいことを気にしない田所でも、横でぐうぐうとお腹をならしてうなだれている女生徒はさすがに気になる。慌てて逸らされたものの、物欲しそうな視線にも気づいていた。横に座る金城と巻島は名前に気づいておらず、のんびりと昼食を続けている。
 しばらく考えた田所は、朝練のあとに食べるつもりでまだ残っていたサンドイッチとパンを差し出した。横に座る女生徒のお腹がすいているのが気のせいだったなら、それはそれでいい。


「……おい。腹減ってんなら、食うか?」


 名前の顔がのろのろと上げられる。視線が田所の持つパンに定まると、一気に目を輝かせた。一瞬頷きそうになって、慌てて首を振る。


「いえ、気持ちは嬉しいんですけど、人様のパンを食べるだなんて悪いです。どうぞ食べてください」


 そうは言いつつ目はパンに釘付けである。ふたりのやりとりに気付いた巻島と金城がどうしたのか見ているなか、ふたりの視線が初めて交わった。


「だけど、腹なってるじゃねえか」
「これは、その……わざとじゃないんです」
「ダイエットか?」
「いえ」


 どう見ても遠慮している名前に、どうしてここまで勧めたのか、田所自身もわからない。ただ、たっぷりと食べることが普通だった田所にとって、お腹をすかせて我慢している姿というのは、見るに耐えないものだったのかもしれない。


「これは朝練のあとに食べようと思って、食べなかったもんだ。いまは昼飯がある。腹減ってんだろ」


 お弁当である山のようなサンドイッチを見て、名前の反応が遅れた。半ば押し付けるようにして渡されたパンをおろおろしながら返そうとしたが、田所は受け取る気配がない。
 田所の両手にはパン、膝にもパン。ベンチに食べ物を置くのもためらわれて、おずおずと巨体を見上げた。


「いいから食え。余りもんで悪いけどな」
「いっいえ、そんなことないです! ……ありがたく、いただきます」


 ゆっくりとパンをかじった名前は一口目を味わったあと、勢いよく食べはじめた。それだけお腹がすいていたのである。流れを見ていた金城と巻島の視線に気付いた田所は、すこし照れたような素振りを見せたあと、自分の昼食に専念することにした。

 5分後、きれいにパンを食べ終わった名前は、深々と田所にお辞儀をした。


「本当にありがとうございました。実はお腹がすいて死にそうだったんです」
「だろうな。ダイエットでもねえなら、昼飯を忘れたか?」
「実はバイト先が潰れてしまって……すこしでも節約しようと思ったんです」


 力なく笑う名前の返答は予想外で、どう反応していいか迷う。何か言わなければと頭の中をかき回して田所の口からでた言葉は、我ながらいいアイディアだと自画自賛したいものだった。


「バイト探してんなら、うちで働かねえか? 面接して受かればだが」


 田所の実家はパン屋であり、家族と二人のパートで店を回していた。だがひとりパートがやめることになり、パートやバイト募集の張り紙をしてみたものの、問い合わせすらない状況だった。一ヶ月ものあいだ貼られていた紙は、誰にも見えていないんじゃないかと疑い始めていた頃である。


「パン屋なんだが、パートが来週ひとりやめちまうんだ。土日祝日は入れるか?」
「は、はい! あの、ほかのバイトとかけ持ちしてても大丈夫ですか?」
「たぶんな。ちょっと聞いてみるわ」


 携帯電話で店に電話をかけた田所は、ちょうどお客がいないと答えた母親と数分話し、いくつか確認をしてから電話をきった。


「明日は時間あるか?」
「はい」
「じゃあ、明日学校が終わってから、履歴書持って店に来てくれ。いま地図書くからよ。あ、あとこれがオレと店の電話番号な。なんかあったら電話してくれ」


 トントン拍子で進むとは、まさにこのことである。高校生ということで面接自体断られることが多いなか、次のバイトがみつかるまで少なくとも一週間以上はかかると落ち込んでいた名前には、目の前の田所が神様のように見えた。


「ほ、本当にありがとございます! パンをもらったどころかバイトまで!」
「バイトはこっちも困ってたからな。おっそうだ、名前は?」
「名字名前です。そちらは?」
「田所迅だ」
「田所さんですね、ありがとうございます!」


 何度も頭を下げて去っていく名前をしばらく見てから、田所は残りのサンドイッチを食べはじめた。それをじっと見ていた巻島が、冗談めかして言う。


「田所っちのタイプがああいうのとはな。ま、予想はついてたけど」
「ちげえよ」
「礼儀正しくて明るそうな子だったな。おそらく二年だろう」


 照れた田所にそれ以上言うことはせず、巻島はストローをくわえた。
 金城はモテるものの、この三人は自転車が一番だということが共通している。つまり、恋という高校生らしいものとは無縁なのである。少しばかりからかってみたものの、これが本当のことになるだなんて、言った本人である巻島すら想像もしていなかった。


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