休み時間だというのに寝ずに熱心に何かを書いているクラスメイトの横顔を、手嶋はじっくりと眺めた。実は隣の席だった手嶋と名前は、話したことはあるものの最低限のことだけ、お互い苗字を知っている程度の関係だった。 染めていない髪はすっきりとまとめられているものの、流行に敏感な女子のように髪型に気を使っているわけではない。化粧もしていなくて、スカートはほんの少し長め。紙に書いた字を追った名前が、満足そうに微笑んでシャープペンシルをおく。声をかけようか悩んでいた手嶋は、ここぞとばかりに声をかけた。 「なあ、名字」 話しかけられたことに驚いたのか、名前はぱちぱちと瞬きをして手嶋を見つめた。どうしたのかと見つめてくるひとみに、自分で話しかけておきながらどう切り出していいのか迷う。 「田所さんのパン屋でバイト始めたんだって?」 「うん、そうだけど……田所さん、知ってるの?」 「おう。同じ部活で、すごく世話になってるんだ」 不思議そうな目から探るような視線が消えて、ぱっと顔が明るくなる。途端ににこにことしたのを見て手嶋が驚いているのも気にせず、名前は嬉しそうに口を開いた。 「そっか、田所さんって部活してるんだ。早く学校に行ってたから、朝練かなって思ってたんだ」 「朝もバイトしてるのか?」 「うん、一時間だけ。朝も働かせてくれるなんて、本当にいい人たちだよねえ」 賛同しか返ってこないと信じきっている言葉に、手嶋が頷く。お金に困っているのかと思ったが、笑顔からは「働けて嬉しい」という感情しか伝わってこない。不思議なやつだ。 「田所さんって、なんの部活してるの?」 「自転車競技部」 「あ、もしかして田所さんが朝乗っていった、シュッとした自転車の?」 「多分そうだな」 「そうなんだ。田所さんって、すっごくいい人だよね!」 今度も頷きしか返ってこないと信じている名前に、手嶋は今度こそ心から頷いた。田所のよさを知っている人は部活内だけではないだろうが、手嶋は二年だった。ひとつ上の学年の生徒の話など、同じく田所を尊敬している青八木としか出来ない。 「田所さんはすっげえいい人だよ。自分のことでいっぱいなのにオレたちの面倒まで見てくれて、強くて速くて、本当に尊敬してる」 うんうんと頷く名前は、どことなく嬉しそうだ。 今まで噂を信じきっているわけでもそれに関して特別なにかを思うわけでもなかったが、それでも話しかけにくい感情はあった。休み時間に名前が寝ていたからということもあるが。 だが実際に話しかけてみたらどうだ。疲れているだろうに笑顔で、なんでもない話に付き合ってくれる。 そのまま名前と田所の話で盛り上がった手嶋は、次の休み時間に来た青八木と名前を引き合わせた。今まで話しているところを見たことがなかったふたりが楽しそうに話しているのを見て、青八木が不思議そうに首をかしげる。 「ほら、田所さんのパン屋でバイト雇ったって言ってただろ?」 部室での話を思い出して、青八木が納得する。手嶋から無口だと教えられていたために、喋らない青八木をさほど疑問にも思わず、名前はすこし緊張しているようにも見える青八木に笑顔を向けた。 「私も、田所さんってすごくいい人だなって思って。青八木くんとも田所さんの話ができて嬉しいな」 ぱあっと青八木の顔が輝く。無口で人見知り気味ではあるけれど、恩人といってもいい先輩をこうして褒められるのを聞くと話したくなってしまう。 「田所さんは、強くて、すごい」 「私、まだ田所さんが自転車に乗ってるところを見たことないんだ。そんなに速いの?」 「すごく速い。スプリンターで、平坦が得意」 「スプリンターって、さっきも手嶋くんが言ってたような……スプリンターってかっこいい名前だね」 「田所さんだと特にかっこいい」 「たしかに」 ふたりで笑い合う光景は、どこか心を和ませる。 まさかここまで青八木がしゃべると思っていなかった手嶋は驚いたが、すぐに話の輪の中に入っていった。無口ではあるけれど実は熱くて人が嫌いではない青八木が、誤解されるたびにひっそりと心を痛めているのを知っている。 三人の田所さん談義は、数分して本人の登場により幕が下りた。手嶋を呼びに来た田所が、予想もしなかった三人組が駆けてくるのに驚く。名前が笑顔で田所に話しかけた。 「さっき初めて三人で話したんですよ。手嶋くんも青八木くんもすごく話しやすくて……あっすみません、私がいたら邪魔ですね」 慌てて去ろうとする名前を制し、田所は簡単に要件を伝える。すぐ終わったそれに、名前は窺うように田所を見た。 ……さっき、名字が手嶋と青八木といるときに感じた、ちくりとしたむず痒いような痛み。これはきっと、ふれてはいけないものだ。まだ封印しておかなければならないものだ。 自分を落ち着かせるためにすうっと息を吸い込んだ田所に、名前は笑顔で話しかける。 「青八木くんに聞いたんですけど、田所さんってスプリンターっていうんですね。かっこいいです!」 ……封印させてくれ、頼むから。 ← → return |