その日の東堂は機嫌がよかった。毎晩名前とお茶会をし、だんだんと仲良くなっていった昨日、名前がためらいがちに聞いてきたのだ。



「尽八は、放課後に自転車に乗ってるのよね? 私も見に行ってみたいんだけど……」



 ファンクラブの子に遠慮している名前に、東堂はすぐに頷いた。いくら夢のなかで愛車に乗って自分が素晴らしいか語ってみても、実際は半分も伝わっていないだろうと思っていたからだ。百聞は一見に如かず。



「ぜひ来てくれ! 明日は練習の最後に、学校の周囲を20キロほど走るのだよ。名前の前を華麗に走り抜けてみせよう!」
「楽しみ! 尽八は、箱根学園に通っているのよね?」
「ああ。道を教えておこう」



 駅からの道を教えた東堂は、何度も道のりを復唱する名前を見て心が弾んだ。夢のなかだけでなく起きているときにも会えるなんて、こんなに嬉しいことはない。

 そうしていつもの時間に目覚めた東堂は、朝からかなりのハイテンションで部員に自慢していた。小柄でフリルたっぷりなワンピースがよく似合う、可憐な少女が来るのだ。
 毎日名前のことを一方的にまくし立てられてうんざりとしていた荒北は、ジャージに着替えながら頭をかいた。
 もうすぐ部活が始まる。東堂のテンションは落ちることなく、むしろ放課後に近づくほどそわそわと落ち着きなく名前のことをしゃべっている。すこし黙ってほしい。



「本当に、その名前っていんの?」
「荒北、名前の名前を口に出すでない! しかも呼び捨てなど!」
「……その女子、本当にいんのかよ。夢でしか会ったことねえんだろ」
「いるとも!」
「別にいいけどよォ……これ以上悪化したら病院連れてくからな。頭の」
「むっ、何を言う」
「あのなァ、夢でしか会ったことのねえ女を実在すると言い張るって、フツーじゃねえだろ」
「だが名前は実在するぞ」
「頭おかしいやつはみんなそう言うんだよ」



 納得していないように眉を寄せる東堂の肩を、新開が軽く叩いた。荒北は言いにくいことをズバっと言える貴重な性格ではあるが、言葉を選ばないので相手を怒らせてしまうことが多々ある。



「今日、名前ちゃんが来るんだろ? ようやく会えるんだ、そのことを話すなら部活後でもいいだろ」
「そうだな、オレの顔が曇っていたら名前も心配するに違いない。時に新開! 名前の名前を口にしていいのはオレだけだ!」



・・・



 部活後の東堂は、ひどく落ち込んでいた。いつも余裕があり、きつい練習のときでも明るさや笑顔を失わなかった東堂に、部員は話しかけられずにいた。その落ち込みっぷりに、荒北でさえ「ほら、名前なんていねーじゃねえか!」と言うのをやめたほどである。
 今日は一番いい笑顔を保ち、髪型も乱さず決めポーズもバッチリだったというのに、名前を見つけられなかった。ファンクラブの子に紛れているのかと目をこらしたが見つけられず、探すことを第一にしていたためにファンサービスもイマイチだった気がする。
 名前ならすぐに見つけられると思っていた東堂は、ひどく落ち込んだ。名前がいたなら見つけられなかったことになるし、もし名前がいなかったのなら荒北の言葉が真実味をおびてきて、どちらにせよいい気分ではない。

 早々に食事を終え自室へ戻った東堂は、ごろりとベッドに横たわった。いつもならここで電話をしたり宿題をしたりチームメイトと話したりするのだが、とてもそんな気分にはなれない。
 電気を消してベッドにもぐりこんで目を閉じる。はやく、名前に会いたい。

 東堂が目を開けるといつものように夢の世界にいたが、今日は一面真っ白だった。まだ名前は来ていないらしい。
 それが不安であたりを歩き回って、いつもより早い時間に来たことに気付いてうなだれた。この時間に名前がいるはずがない。



「……尽八?」



 自分を呼ぶ声に顔をあげる。そこには不思議そうな顔をした名前が立っていて、思わず駆け寄って肩をつかんだ。



「名前か? 名前なのか?」
「そうだよ。尽八、今日はすごく早いね」
「名前か……」



 安心しきった東堂が崩れ落ちるのを見て、名前が慌ててクッションを頭の下に差し込んだ。そのまま寝転ぶ東堂の横に座り、カチューシャをしていない髪をなでる。



「今日、尽八が走るのを見たわ。ファンクラブってあんなにいるのね」
「いたのか!?」
「あの女の子たちが見えなかったの?」
「そうではない、今日名前は見に来てくれたのか? 見つけられずにいたから、てっきり……」



 起き上がろうとする東堂を制し、ゆっくりと横にさせる。名前は頷いて、すこし困ったような顔をしながら口を開いた。



「すこし上から見ていたの。道は、人がたくさんいたから……。尽八がすうっと加速するのも、坂で一番速かったのも、ぜんぶ見ていたわ。同じような自転車って、たくさんあるのね! みんな自転車に乗れるのよね、すごいわ」



 話すにつれいつもの調子を取り戻していく名前に、東堂はほっとして体の力を抜いた。
 カチューシャの色、くしゃみをしてもなお美形だったところ、走ったコース、タイム、すべて今日の出来事だったからだ。それは名前が見に来ていたことを示すもので、つまり目の前の少女は実在するということだ。



「今日は名前のために気合いを入れたからな! いつ見に来ても構わんよ」
「そうさせてもらうわ。だから尽八、今日はもう休んで。夢のなかで物を出すのは、思った以上に疲れるものなの」
「せっかく名前がいるのに勿体無いではないか」
「明日も明後日も、きっと会えるわ。だから尽八、おやすみ」



 頭をなでる細い手はやさしく、淡い水色の花柄が刺繍されたワンピースはよく似合っている。おとなしく目を閉じるとちいさな子守歌が聞こえてきて、東堂は満ち足りた気持ちで意識を手放した。
 この曲をどこかで聞いたことがあると思ったら、このあいだ音楽の授業で聞いた、クラシックの──。



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