目を開けた東堂は、自分が仰向けで寝転がっていることに気付いて起き上がった。昨日とはすこし違うが、アンティークの机と椅子、大きなテディベアは変わりない。寝る前に「また夢の続きがみられますように」と祈った甲斐があったというものだ。
革張りのソファの上でちいさく丸まっている、緑色のワンピースを着た女の子。寝ているのかと思いそっと近寄ると、勢いよく体を起こした名前と目が合った。
「尽八!」
大きな目に涙をいっぱいためた名前に、東堂はぎょっとして体をこわばらせた。泣いているだなんて予想外すぎて、情けなく「ど、どうした」と聞くのが精一杯だ。
小さな両手を広げて抱きついてきた名前に、東堂は焦りつつも突き放せなかった。泣いている女を慰めるのは、男の役目だ。
「どうした。何かあったか?」
「じ、尽八が来なかったから……」
抱きとめた名前は、東堂の胸のあたりまでしかない。白くてやわらかくて、東堂からしてみればどうしてそんなに小さいのかわからない肩を震わせている。
「ずっと一人だったから……やっと一人に慣れたのに、尽八といるとすごく楽しくてあっという間で……でも、もう来ないと思って……」
「……そんなことがあるはずなかろう。オレだって、会おうと思って来たんだぞ」
今日は寝る寸前に宿題があるのを思い出して片付けていて、ベッドに入ってもしばらく名前に会えるようにと念じていた。昨日より一時間ほど遅く寝たのだが、そのあいだずっと、名前はひとりで泣いていたのだろうか。
「遅くなってすまない。今日も一緒にいるから、もう泣かないでくれ」
「……うん」
ようやく名前が顔をあげる。残った雫をぽろぽろと落としながら、名前はぎこちなく笑った。それから恥ずかしそうに東堂から離れ、はにかみながら胸の前で手をもじもじとさせる。
「男の人に抱きつくなんて……ごめんなさい」
「いや、構わんよ」
ここは余裕をみせるべきだと、東堂は何でもないような顔をして答えた。内心は心臓ばくばくであったが。
甘酸っぱくぎこちない沈黙が続き、東堂はわざとらしく手を叩いた。すこしだけ声がひっくり返ったことに気づかれなかったのは幸いだ。
「ここでは思い描いたものが出せるのだったな。ちょうど実家からオレの好きな和菓子が届いて、名前にも気に入ってもらえるといいのだが」
目を閉じて、味やにおい、舌触りを思い出す。そっと目を開くと東堂の想像していた和菓子が出ていて、ひとまず安心してもう一度目を閉じた。
一分後、今度は玉露のお茶が湯呑に入って現れる。名前がはしゃいだ。
「わあ、すごい! 私より上手なのね」
「なに、名前には劣る」
「私は最初かなり時間がかかったし、一日に何個も出せなかったわ」
椅子に座り、ふたりで和菓子をほおばる。上品なあんこの味に、さきほど泣いていたのが嘘のように名前が笑った。
「尽八は和菓子が好きなのね。とってもおいしい!」
「名前が好きなのはショートケーキだろう?」
「どうしてわかったの?」
心底不思議だというように、名前の目が丸くなる。昨日さんざんショートケーキやフルーツタルトを食べ、空中にまで浮かべていたことを覚えていないようだ。
東堂はやわらかに笑い、玉露に口をつけた。こんな穏やかでふわふわとした時間は初めてで、それが心地よかった。
「ねえ尽八、今日もお話を聞かせてほしいわ」
「もちろん。だが、名前のことも聞きたいな」
昨日も名前は話してはいたのだが、可愛い小物のこんなところが好きだと同性にしかわからない細かさを語ったり、ウィンドウショッピングの楽しさ、庭を散歩した時のささやかな発見など、名前の内面のことには触れなかったのだ。対して東堂は自分の日常を主観を交えて語り、その性格通りあっさりと内面をさらけだしていた。
名前の顔が、ふっと曇る。
「──せっかくだから、尽八の話が聞きたいわ。楽しくて明るくて、尽八そのものだもの」
「話したくないなら無理をしなくていい。オレも名前のことを知りたいと思っただけだからな」
「話したくないわけじゃないの。ただ……」
なんと言えばいいかわからず口ごもる名前を見て、東堂は慌てて話題を変えた。名前が暗い瞳をする理由を聞きたいと思っていたが、こう言われると聞くことができなくなる。
東堂とよく話すのはよくも悪くも女子高生のノリの女の子しかおらず、どこかあどけなくてフリルとレースに囲まれた女の子には慣れていない。
必死に話題を探した結果、今日ここに来れたら出そうと思っていたものを思い出す。目を閉じて、和菓子の何倍もの時間をかけて自分の愛車を出現させた。
「名前、見てくれ! これが昨日言っていた、オレの愛車だ」
「これがロードバイク? はじめて見るわ……変わった形をしているのね」
「すこしでも速く走るよう、こんな形をしているんだ。乗ってみればいい」
「そんな……私、自転車に乗ったことがないの」
恥ずかしそうに告白する名前に、そう返ってくるとは思わなかった東堂。東堂が思い出せるほど馴染んでいるのは愛車のリドレーだけであり、ふつうの自転車、しかも補助輪付きのものなど出せるはずもない。
しばらく悩んだすえ、東堂はロードに乗って見せることにした。名前と砂場遊びのように雲を積み重ねて坂にして、音もなく加速して坂を登る。
「すごい! 尽八はなんでも上手なのね!」
そんなことはなかったが、名前の上機嫌な顔を見れて嬉しい東堂は、自慢げに笑うだけだった。
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