何かがおかしいとわからないわけじゃない。何がおかしいのかわからないだけ。この生活が心地よくてなにも考えられずにいられたらと願ってしまって、問題を先送りにしているだけだと、自分でもわかってる。
いつもどおり、朝おきて学校に行って、恋人や友達と何気ない日常をすごす。一週間後には忘れてしまう、でも十年後にふと思い出すような、青春のきらめきをつめこんだ三年間だけの宝石箱。席に座って、ぼうっと窓の外を見つめた。生徒たちが話しながら登校する光景は、一日のはじまりだ。
「ナマエ、おはよう」
「おはようライナー」
部活の朝練を終えて教室に来たライナーは、いつものように挨拶をしてくれた。それに笑顔で挨拶を返し、また窓の外を眺める作業に戻る。あ、アニとベルトルトだ。
「ナマエ、疲れているんじゃないか?」
「え?」
気づかわしげなライナーの声に、はっとして振り返る。真面目な顔をしたライナーは、もう一度確認するように疲れていないかと聞いてきた。たしかに疲れているかもしれないけど、それは理由のわからない焦燥に蝕まれているからだ。ここで頷けば、ライナーはもっと心配してしまう。
「ちょっと寝不足で。夜中になるとテレビが面白くて、つい夜ふかししちゃうの」
「今日は早く寝ろよ。また小テストがあるが、勉強はしたか?」
「……あ」
仕方ないというように差し出されたノートには、几帳面な字でテストにでるところがまとめられていた。ハンジ先生のテストは、いつも予想通りにはいかない。それでも山を張らないと点はとれないから、実に難しいのだ。
授業ではいつも話が脱線するのでノートはあてにならないが、教科書通りというものでもない。ハンジ先生は変わり者なのだ。
「おそらくだが、ここが出るだろうな。興奮して話していたから」
「ああ、それは出るね」
テストにでる問題はハンジ先生の興奮具合ではかるという、なんとも感覚に頼った作戦だが、これが一番当たる。
すこし荒れた手でシャーペンを握り、ノートの一部を示すライナーの指先を見つめる。紙で切ったような、わずかな傷が指先にあるのに気付いて驚いた。
「ライナー、それどうしたの? 紙で切った?」
「ああ。たいしたことはない」
絆創膏を貼るまでもない傷を、ライナーは照れくさそうに隠した。たいした痛みもなく気にならない傷なのに、ふとしたときに思い出して痛くなったり痒くなる。それがいまの私となんとなく似ている気がして、ライナーの手を持ち上げて傷を見つめた。
──ライナーが怪我しているのをはじめて見た気が、する。素肌が隠れるような服を着ていたからかもしれないけど、怪我しやすい腕や手は、いつも綺麗だった。成績2位も納得の状況判断と面倒見のよさ。どんな訓練も乗り越えて、傷なんてなくて──。
「ナマエ? どうしたんだ。どこか痛いのか?」
焦ったライナーの声が聞こえて、喉がひきつるような悲しみがこみあげてきた。目から次々と涙があふれでてきて、ほおを濡らす。悲しさや愛しさがぐちゃ混ぜになった感覚に、自分でもどうして泣いているかわからない。
うろたえるライナーの手を握って、ほおに当てた。頬ずりするように、包み込んでくれているライナーの手のひらの温度を感じる。
「ごめん、なんでもないの……ただ、愛しくて」
「愛しい?」
「ライナーが生きていることが、私が生きていることがこんなにも──。永遠に続きそうな明日が来ることが、嬉しい。こうして一緒にいられるなんて、思わなかったから……」
勝手に言葉が口からでてくるみたいだ。ライナーは黙って私の言葉を聞いたあと、優しくタオルで涙を拭き取ってくれた。こすらないようにそうっと、飽きることなく何度も。
「俺もだ。ナマエが生きていること、こんな日々が続いていくこと──ナマエが俺に笑いかけてくれること。すべて諦めていたことだ。本当に、ありがとう」
やさしく心からそう思っていると伝わる声で、心のなかをそうっと見せてくれる。それが嬉しくて泣くと、まぶたにやわらかい熱が落ちてきた。続いてもうひとつのまぶたにも、頬にも、くちびるにも。
なにがこんなに悲しいんだろう。なにがこんなに嬉しいんだろう。きっとこの日々が、もうすぐ終わりを告げるからだ。私を食べようと待ち構えているおおきな口にダイブする時が迫っている。それまでもうすこしだけ、こうして抱きしめていてほしい。きっともう、叶わない願いだから。
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