もう暗くなった登り坂は、いつまでたっても終わらないような気がした。車は通るたび一瞬だけ道を照らしては、冷たい風を残してすぐに見えなくなる。ヒールがアスファルトを蹴る規則正しい音だけが自分を奮い立たせてくれるようで、肩にかけたバッグを持ち直した。
 今日はサークルの飲み会で遅くなってしまったから、早く帰ってお風呂に入って寝たい。すこし寒く感じる風も、髪や服に染み込んだ煙草のにおいをかき消してくれるようで心地よかった。お酒を飲んでいないのにほてっていた顔が、だんだんと冷えていく。
 ゆるいとはいえずっと登りだった坂が終わり、ようやく下りになってきた。まだあと半分もあるのかとげんなりしたけど、もう半分も来たのだと思うことにした。あと30分も歩けば家に着くかもしれない。
 気合を入れ直したところで、うしろから原付バイクが走ってきた。ちょうどガードレールがないところで、すこしだけはじっこに寄る。

 それからは一瞬だった。すぐ横をバイクが通ったと思ったら、バッグを盗られた。あまりにも鮮やかで、数秒のあいだ盗られたことに気付かず、ぽかんと立ち尽くしてしまった。



「どっ……ドロボー!」



 慌てて叫んでみるもののもう遅く、まわりに車もいない。走ってあとを追うけど原付バイクだと思われるライトは遠く、ヒールが脱げそうになって立ち止まったとき、横をひゅんっと何かが通った。自転車だ。ママチャリと違ってカゴもない、サドルが高いやつ。
 その人にひったくりにあったことを伝えて警察でも呼んでもらおうと思ったのに、その人は私に見向きもせず坂をすごいスピードで下っていった。立ちこぎをしている姿はすぐに見えなくなってしまって、今度こそ途方にくれる。とにかく急いで近くの店にでも寄って、警察を呼んでもらおう。バッグのなかには財布や携帯も入っている。

 小走りで坂を下って、息切れで一休みしようかと思ったころ、前から自転車が走ってきた。私を追い抜かしていった、緑と青の中間のような色の自転車。



「ほらよ」



 ぶっきらぼうな言葉と一緒に投げられたのは、私のバッグだった。男の子とバッグを交互に見て、ぽかんと開いた口をなんとか閉じる。



「あ、ありがとう……! 一瞬で、なにもわからなくて、警察に行かなきゃって……本当にありがとう!」
「うっせ。女がひとりでこんなとこ歩くな」
「そうだよね、本当にありがとう、恩人だよ!」
「ほんとにわかってんのかよ……中身確認しとけ」



 男の子の言葉に、慌ててバッグを開いてなかを確認する。財布、携帯、教科書やルーズリーフ、ハンカチまで全部ある。
 バッグを閉めて全部あることを伝えると、男の子は面倒くさそうに首のうしろをかいた。すぐにでも自転車に乗って去っていきそうな雰囲気に、思わず腕を掴む。



「名前は? お礼だけでもさせてほしい」
「いいって」
「でも、本当に助かったから。菓子折り持ってお礼にいくよ」
「いらねえっつってんだろ。礼ならいいから、バスでもタクシーでも乗って帰れ」
「それが……お金おろすの忘れて、300円しかなくて」



 男の子の視線が、とたんに哀れみを含んだものになる。私だって、いつもはバスで帰っているのだ。好きでこんなところを歩いているわけじゃない。
 男の子はなにか考えているようで、鋭い視線でじっと見つめてきた。ひったくりにあった私だけど、さすがに言いたいことはわかるぞ。



「わかってる、300円でお礼が出来るもんかって考えてるんだよね。大丈夫、おろせばあるから!」
「違ェよボケナス!」
「えっ私ナスじゃないよ」
「んなこと言ってんじゃねーヨ! 家までどんくらいだ」
「たぶん30分歩けば着くと思う。そういえば、ひったくりした人はどうなったの? あなた、怪我はした?」
「してねーよ。かばん奪い返してナンバープレート確認したっつったら、逃げてった。覚えてなんかねえのにな」
「自転車、すごく速かったものね! 追いついたうえにバッグまで……やっぱりお礼しなきゃ」
「いいから、さっさと歩け」



 男の子が自転車をおりて、前を歩き始める。男の子が歩くたびに普通の靴とは違うちいさな音がするから、あの靴は特別なものかもしれない。
 自転車を押して歩いていた男の子が振り返る。



「早く来い!」
「あっうん」



 待っていてくれていた男の子の横に行くと、また歩き出した。すこし早足で歩きながら、出来るだけそっと横顔を見る。年下っぽいから、高校生だろうか。



「あの、あなたもこっちに用事があるの?」
「おー」
「自転車で行っていいよ? 私、歩いて行くから」
「うっせ」



 男の子は口が悪いようだ。黙れと言われているようで、口を閉じて歩く。
 自転車用なのか、見慣れないぴったりした服には、箱根学園と書いてあった。忘れないように覚えて、むすっとしつつも自転車に乗らず歩き続ける男の子の様子を窺う。

 ──あ。もしかして、私がまたひったくりにあわないように、一緒に帰ってくれているのかな。バスにも乗れない、見ず知らずの私のために。



「せめて名前だけ、教えてほしいな」
「やだね」
「──あのね、ありがとう。本当に助かった。コンビニまで行ったら、せめて何か買わせてね」
「300円しかねえんだろ」
「300円でも買えるものはあるんです」
「いらねェよ。いいからさっさと歩け」



 名前も教えてくれない男の子は、結局私のアパートのすぐそばまで送ってくれた。こっちに用事があるって言ってたけど、私がドアの鍵を開けたあと、黙って来た道を引き返したのも知っている。

 箱根学園の自転車部の、ぶっきらぼうですこし怖い、私の恩人。結局ジュースを買うことすら拒否されて、名前も教えてもらえなかった。だけどそれがあの男の子の優しさで、たぶんすこし照れ屋なんだと思う。
 窓を開けて見た景色のどこかであの綺麗な自転車に乗っているのかと思うと、すこしだけ見慣れた景色が愛しく思えた。



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