夢もみないで眠った翌日、おきたのはハンジさんの元気な声と勢いよくドアを開ける音だった。制服のまま寝てしまったから、しわになってしまっている。状況が把握できない頭が、数秒かかって昨日の出来事を思い出した。まだくっつこうとする目を開けてハンジさんに頭をさげる。



『おはようございますハンジさん』
「え? あれ、きみの言ってることわかんないんだけど」
『あれ? ハンジさん、何語を喋ってるんですか?』
「えっまさかきみ……話せなくなった?」



 見つめ合うとー素直にーおしゃべりーできーなーい。
 ぱちぱちとお互いの目を覗き込んで数秒、一気にパニックが襲ってきた。どうしよう、知らない世界で言葉が通じないなんて、どうしよう、なにが原因なんだろう。涙目でハンジさんを見上げると、何かを考え込むように手であごをなでていた。それからたぶん、待っててと言って出て行って、しばらくして男の人を連れて戻ってきた。たしかこの人は、私がここに来るまでの経緯をメモしていた人だ。名前はモブリットさん。
 ハンジさんは持ってきた本を開いて、巨人の挿絵があるところを指差した。



「巨人」
「……しょしん」
「巨人」
「きょしん」
「巨人」
「きょじん」
「オッケー。次はこれ。ちょっと長いけど、調査兵団」



 ハンジさんが制服についた紋章を指差す。さっきより長い言葉を、数分かかってなんとか発音する。ハンジさんは満足そうに頷いて立ち上がると見せかけて、私のあごに手をかけた。そのまま整った顔が近づいてきて、状況を飲み込む前にキスされた。キスである。そう、キス。



『はっははははハンジさん! 何やってるんですか!』
「うーん、もしかしたらキスで話せるようになるかもと思ったんだけど、女だと無理なのかな。君が落ちてきたとき、聞いたことがない言葉で叫んでいたのを何人も聞いてる。だけど落ちたあとは私たちと同じ言葉をしゃべっていた。そのあいだに何をしたかっていうと、キスだ。だから次、モブリットやってみて」
「はい!? 分隊長あんたなに言ってるんですか!」
「男にキスされたら話せるようになるかも。そりゃキスしたくないかもしれないけどナマエの情報は必要だし、ナマエだってキスのひとつで保護してもらえるならいいだろう?」
「本当に……恨まれても知りませんよ」
「なんで? 誰だってそうすると思うけど」
「分隊長と一緒にしないでください」



 モブリットさんが眉毛をへにゃりと下げて、申し訳なさそうな顔で近付いてくる。もしかして……もしかして、キスするつもりなの、かな。
 恋人どころか好きな人もいなかったけど、ファーストキスにはそれなりの理想があった。綺麗な夕日のなか、高台とかでキスするって夢。耳をすませばみたいな場所で。でも、そんなことを言える状況じゃないし、言っても通じない。私がここで生きていくために必要な対価は、持っている情報を差し出すこと。あんまり詳しく知らないことを、それでも貴重な情報だと言ってメモをする姿は、この世界で人類がどれだけ弱小な存在かを表している。
 たぶん、今ここでキスすることが必要なんだ。キスのひとつくらいがなんだ。これは人工呼吸と一緒。やらなきゃ死んじゃうから、するだけ。そう、それだけ。
 それなのに私の目からは勝手に涙がでてきて、モブリットさんが焦ったようにハンジさんに抗議する。けどそれも数十秒で、またすぐ私に向き直ったモブリットさんは、たぶんごめんと言って顔を近づけてきた。



『謝らないでください。大丈夫です、これは人工呼吸だし』



 涙は止まらないけど、なんとか笑ってみせる。肩をそっと掴まれて、少しだけくすぐったかった。
 モブリットさんの顔が近付いて、くちびるがふれる数ミリ前のところで止まる。ハンジさんから見えない角度でおこなわれたそれは、どこにもふれることなく離れていった。



『モブリットさん……?』
「やっぱり話せないみたいだね。いちおう、最初にキスしたっていう訓練兵を連れてきてくれる?」
「はい」



 モブリットさんはでていく寸前、私をみて困った顔をして、人差し指をくちびるに当てた。そのあと多分もう一度謝ってでていった姿を、ぽかんと見送る。
 ……私が泣いたから、ハンジさんに言われたのにキスしないでいてくれたんだ。心がほわっとなったけど、残念そうなハンジさんを見て怒りがわきあがってきた。



『なにも聞こえてないと思うから言いますけど、ハンジさんのばか。こっそりオカマってあだ名つけてやりますよ。乙女のくちびるをなんだと思ってるんですかばかあ』
「なんだかよくわからないけど、罵られてる気がするね」



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