見たことがない服は、娼婦でも着ないほど足がでていた。上質な生地だとひと目でわかるそれをひるがえしながら、女は見たこともない包装の甘いにおいのする物体を押し付けて走っていく。
 スカートの裾が揺れて、かなり危ない。思わず大声をだしたが女はわかっていないように返事をするだけで、すぐ揺れる布に心もとなく守られた足は、白くてやわらかそうだった。

 あの女とは何もなかった。そういうことにしよう。あれは事故だ。オレのファーストキスは、ミカサ……いやなんでもない、とにかくあれは鼻がぶつかっただけだ。そうに決まっている。
 ぐっと拳を握ってミカサを見るが、いつものようにオレなんて眼中にないようにエレンを見ていて、がくりと肩が落ちる。さっきのことも含めて、エレンに八つ当たりしそうだ。くそっ、エレン爆発しろ。



・・・



 あの女のことは、思い出すだけでいらつくわ悲しくなるわ落ち込むわ、一秒でも早く忘れたい存在だった。それなのに翌朝呼び出され、人工呼吸をして、その夜にも来た。どんだけ会わなきゃいけねえんだよ。むっすりと口を引き結んで、能天気なツラを横目で見る。
 こいつはおそらく、巨人のいない壁の外から、どうやってかここに来た。うわさというものは時に真実を含んでいるものだ。巨人のいない世界で、死ぬなんて他人事で、へらへら笑ってりゃ生きられる場所から来たに決まってる。
 そう思うと憎しみさえわいてきて、オレのことなんて気にしていないミカサとごちゃまぜになって、腹んなかがぐるぐると渦巻いていく。マルコが心配そうに見てきたのに手を振って大丈夫だと答えて、窓の外を見た。早くハンジ分隊長が帰ってきて、こいつを持って帰ってくんねえかな。



・・・



 ……こいつは、オレが思っているように能天気で怖いもの知らずな性格なだけじゃ、なかったのか。オレが毎日調査兵団まで行くことに反対した、苦しそうな女の姿を思い出す。こいつはこの世界の言葉を話していない。にも関わらず、巨人と調査兵団という単語にだけは反応した。
 ベルトルトがおろおろと、ライナーとハンジ分隊長とナマエを順番に見て、冷や汗をかいている。青ざめて泣きそうになっているナマエは、ハンジ分隊長が言っていることの大部分は理解しているのだろう。震える体を必死に動かして、怯えながら首を振る。そりゃ、誰だって巨人とキスしろなんて言われたら嫌に決まってる。
 あいつの口からひきつるような嗚咽が漏れて、心にぽつりと何かが落ちる。みんな痛ましいものを見るようにこいつを見ていて、ようやく心のなかに湧き出た感情に名前がついた。罪悪感だ。

 オレがキスすれば、こいつは巨人とキスしなくて済むかもしれない。でもそれには、オレの犠牲が必要だ。
 ぎゅっと手を握りしめてどうするべきか葛藤しているあいだに、あいつはベルトルトをかばうようにハンジ分隊長と向き合った。震える体で、自分よりも大きい男をかばう。言っていることはわからなかったが、ベルトルトを守ろうとしていることだけはわかった。あいつが抵抗をやめ、ハンジ分隊長の手を握ったからだ。
 声もなく泣きながら、震えて動かない足を必死に動かして巨人へと向かう背中は、能天気でへらへら笑っているあいつとかけ離れていた。ベルトルトに迷惑をかけないという理由だけで、あいつはあんなに嫌で怖いものを受け入れようとしているのか。
 思わず手を伸ばしかけたとき、あいつが振り返った。言っていることは伝わらないっていうのに、それを気にしていないように笑ってみせる。任せろというように胸を叩いて笑っているくせに、涙はひっきりなしに出てはあごを伝ってぽたぽたと落ちてゆく。
 それを見て、思わず駆け出していた。手を引っ張って、振り向いてバランスを崩しかけたところに力を加える。あっさりと後ろへ倒れた体を支えながら一緒に転んで、すこしだけくちびるにくちびるを当てた。
 潤んだ目が見開かれて、言葉が通じるようになったことに驚きながら抱きつかれる。その行動に驚き、体を離そうとする前にハンジ分隊長に問いかけられた。



「別にいいけどさ、きみはこれから先もその覚悟があるの?」



 やっぱりこの人にはお見通しだったらしい。転んだふりをして、偶然を装ってナマエを助けたことを。
 答える前に、ナマエが言葉を発した。すがりつく手はすぐに滑り落ちていって、それでもまた服にしがみついてくる。



「ジャン、くん……! ごめん、ごめんね……! わっ私、自分が、自分だけが嫌な思いするならそっちのほうがいいって、でも、怖くて……。もっ、ジャンくんに、迷惑かけるつもり、なかったの。ごめん、本当にごめんなさい……!」



 泣きそうになりながらも何とかこぼさずに涙をためる目は、ゆらゆらと揺れていた。押し倒すようになっているのに、それを気にする素振りもない。子供のように恐怖に震える体はちいさくて柔らかくて、これが巨人に差し出される場面なんて想像したくもなかった。
 口を開く。そうしてオレは、兵士特有の、上の命令には逆らえないという体制を利用した答えを口にした。



・・・



「ジャンくん、どうしたの?」



 ふっと目の焦点を合わせると、お茶をいれているナマエがいた。エルヴィン団長からもらったという菓子を、鼻歌をうたいながら皿に乗せている。
 体には筋肉がついた。立体機動を握る場所にタコができているし、肌はすこし焼けたように感じる。脇腹にはあのときの傷が残っているが、それすら含めて綺麗だと思う。



「ちょっと昔を思い出してたとこだ」
「胎児のときの記憶とか?」
「覚えてねえよ」



 ポットを置いたナマエの手を掴んで引き寄せた。いつかのようにあっさりと倒れた体を抱きしめて、言葉を交わすためじゃないキスをする。
 驚きながらも頬を染めて笑うナマエの顔だけは、あの日から変わっていなかった。



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