忘れる話///

「…誰だ?」

思ったよりも冷たい声だった。

「すまないが、人違いじゃないか? …その、いや、申し訳ないが…俺はあんたなんか知らないし」

そんなはずはない。
そんなはずないじゃないか。
だって。

「俺が、お前と夫婦…?」

「じょっ、冗談もそれくらいにしてくれ…!俺はお前なんかしらねぇ… なぁ、あんた、本当に大丈夫か?誰かと間違えてるんだろう?そうじゃなきゃ… 悪いが、もう話しかけないでくれ」

冗談なんかじゃない。嘘なんかじゃ。
間違えであるものか。
あんなに、あんなに。

「頭がおかしいんじゃないの」
「ねぇ、もう行きましょう?」
「きっと… 嫌な事でもあったのよ」
「そうね、あなたを誰かと間違えるくらい、嫌なことが」

「悪いことは言わないから、ちゃんと家に帰って飯くって寝ろよ?俺も今日のことは忘れるから、な」

待って、待って。
待って。

待って。

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泣きながら殴られて「いってぇな?!」とかなんとか。
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「またお前か… あのなぁ、」
「頼む、ひとつだけ…ひとつだけ聞かせてくれ」
「…ひとつだけな」

「…いま、しあわせ、なのか」

「…あー、うん、たぶんな」
「…そう、か」

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幸せだと思う。幸せのはず。
彼女がいて、結婚もして、満ち足りた生活をしているのだし。
悪いことなんかないはずなんだ。

「…なぁ、」

どうしてそんなことを聞くのか、と声をかけようとしたが彼女はもういなかった。
銀髪が遠くに見えた気がする。
すぐに角を曲がって去って行ってしまったが。

ずきずきと頭が痛い。
「なぁ、まって」
どうしても今聞かなきゃいけないとわかっていても、あまりに痛さによろりと膝をついた。
「まって、くれ、 」
お前はなんで俺のことを知ってたんだ。
俺はお前を知らなかったのに。
知らなかったはずだ。
どうしてお前は俺にそんなことを聞いたんだ。

何か聞かなきゃいけない気がするんだ。
忘れていることがある気がしてならない。
去っていく姿を見ると、俺が悪いような気がして。

「ま、って 」

そんな泣きそうな顔を、しないでくれ。
もしかして、俺は、

「しれす」

シレス、まって。

いま、おもい だし




「ダメだよ思い出したら」

くすくす笑う声がする。

「ようやくここまできたんだから」

あたまが、いたい。

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・旦那を寝取る目的があった(好意でも悪意でも)
・嫁になんらかのダメージを負わせたい目的があった
・両方をおちょくりたかった
・ぜんぶ

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先輩を捨てたくせに。泣かせたくせに。
あんなに愛してたくせに。

そのくせに、どうして、あなたは。

「あのひとを捨てたくせに!どうして、あんたが、あんたが…!
あんたがそんな目をしてるんだっ…!!!」

微塵も幸せそうじゃないなんて、そんなことがあっていいはずないじゃないか。
それじゃあ一体、なんのために先輩は、あのひとはあんなに傷ついたんだ。
あなたのせいで、あなたのためにあの人はあんなに傷ついた顔をしていたのに。

あなたが幸せならと、身を引いたのに。

顔面を思わず殴り飛ばしてしまった。
べしゃりと地面に崩れ落ちた彼が身動きすら取らない。
死んだ人間の目の方がまだ、きれいな目をしてるだろう。

「お、まえは」

ぼんやりとこちらをみる男。
少し、やつれてるようにも見えるのは気のせいだろうか。

「はらく?」

僕の名前を呼んで、すぐにあのひとは頭を押さえている。
ゆるく首を振ってから、もう一度顔を上げたその人は、ぼそりと「誰だ?」と言った。
よろりと立ち上がってから、困ったような顔をしながら「すまん、ぶつかった、んだよな?」などと言うのを聞いてすこし眉根をしかめてしまった。

いま、殴られたことを忘れてるなんて、そんな。

「と、悪い、急いでるんだ」

じゃあな、と去ろうとする彼の肩をつかんでしまったのは仕方がないだろう。
首元に見えたものがきになってしかたがない。

「それ、あなたのですか」
「え? あ、あぁ、これか… そうだよ、嫁との、」

ぴたりと声が止まった。

「嫁、って?だって、おれ、 あれ、そうだ、けっこんして…」

ふらりと一歩彼が離れる。
ぶつぶつと何か言いながら数歩下がって、ちらりとこちらを見た。
先ほどよりは幾分かはっきりとした見たことがある目。

「はらく、 あいつを」
「え?」
「…あいつを、つれて、せいろから」

頼む。

彼がそういった直後に、彼の手を誰かがつかんだ。
目元に彼女が両手を当てて耳元で何かをささやく。

一度だけ彼女が僕を見た。
にんまりと笑いながら彼を連れて行った。

「ま、」

待て、と言おうとしたのに、その瞬間目の前を車が通って行った。
慌てて周囲を見渡してもどこにも姿がない。

足元に、彼がしていたネックレスが落ちているのに気が付いた。
傷も汚れもない指輪が通されたネックレスがそこに。

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とかなんとか


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「葉落、」
「! … ジーノ、さん?」
「あぁ、その… あいつはどうした?」
「… あなたには関係ない」
「ん、 あぁ、そうだな。うん、そうだ… なぁ、俺が言うのも変な事だと思うけど、」

「シレスのことを守ってくれ」

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後日はもう覚えてない。
「? だれだ、お前」
「…僕の事、わかりませんか?」
「? あぁ、悪いが、あったことあったか?」

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その後の旦那?
いいだけ使われてから憔悴してきたところでぽい。
ちょうど狙ってた南署につかまって監禁かな〜〜
嫁がいる南署のひみつの地下に監禁かな〜〜
その前に精神がおかしくなってて黄色い救急車かな〜〜
どのみちくきり送りかな…

旦那が嫁に対する愛が深くて深くて、捻じ曲げるのにも忘れさせるのにもかなりの労力。
無理やり捻じ曲げられたせいで完全に精神がだめになるんじゃないかなって。
無理な力くわえつづければ割れますね。ばきっとな。
割れてしまってはなかなか治りませんね。残念ですね。


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「ぼ、くは、その、あなたの後輩で、えっと、その…」

「ぼくは、」
「僕は、葉落っていいます」
「…シレスさん」
「あなたを助けに、いえっ、守りにきました。」

珍しくきりっとして嫁の手を握る葉落とか。

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街中で綺麗な女性を見かけた。彼女と連れ立って歩く青年が不躾な目線を送る俺に気がついてか厳しくこちらを見て、彼女をそっと隠した。
銀髪を靡かせるどこか気怠げな雰囲気を持つ彼女。澄んだ青い瞳が一瞬だけこちらをみて、すぐ逸らされた。

昔と変わらなく、美しい。
どこか懐かしさを感じる彼女が去っていくのを見ながら、唐突な頭痛に額を抑える。

兄だという2人は俺に教えてくれた。
かつての記憶をすべて捨てた代わりにいま、俺はこうしてまともな人間のようになれてるのだと。
思い出せないことがもどかしいとも思った。だが、今日、たったいまこれほどまで、それを悔いたことはないだろう。

「待っ、 っ…」

足から力が抜ける。頭の奥で声がする。笑い声、それもぞっとするような女の。
いつもこれだ。これのせいで思い出せない。

情けない。
ほんとうに、情けない。

蹲るほどの頭痛と頭が割れそうなほどの笑い声に苛まれながら、先ほど通り過ぎていった青年がこちらに駆け寄ろうとしてるのが見えた気がした。

(数年後とか。久希里に馴染んだ嫁と葉落と。
普通の生活ができるレベルまで回復したかわりに全部忘れた旦那、とか。)

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「あ、…お前、」
「……なにか御用ですか」
「この間の…葉落、だっけ?助けてくれた彼といた子、だよな」
「…えぇ」
「あー、いや、綺麗だったから、覚えてて」
「え?」
「君が。綺麗な女性だから、忘れられなくて。昔会ったことないか?あ、いや、俺もわからないんだけどさ…」
「…わから、ない?」
「うん。記憶喪失らしくってね。自分のことも覚えてなかった」
「そう、ですか」
「なんも覚えてないけど、なんとなく君のことが懐かしい気がして、って、これじゃあナンパになっちゃうかな… まぁ、うん。とにかく、君の目が綺麗だったから、つい見とれちゃってさ。それだけなんだ。どうしても声がかけたくて… 不快だったらごめんね。じゃ、俺はこれで」

実はもう一回、一目惚れ。

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「お名前はわかりますか」
「 あは、なまえぇ?わかるよ、そりゃあ、おれのなまえ、えぇとねぇあれぇ、忘れたかもぉ(笑い声)」
「分かりませんか?」
「じーな?じーにゃじな、なーちゃん、くそ」
「もう一度」
「ジーナちゃんって、あいつらおれのこと呼びやがって!殺してやる!俺はっ」
「ジーナと呼ばれてましたか?」
「違う!違う違う、おれは、ちがうんだよ、かえして、かえしてよ、わすれたくない、すてたくないんだかえして」
「ジーノさん?」
「ごめんなさいおれ、おれ、いうこときくからかえして、みあたらない(泣いている)」
「あなたは、何を返して欲しいのですか?」
「 」
「もう一度」
「なくした」
「何を?」
「分かってるくせに聞くなよ葉落」
「っ、じ、ジーノさん?」
「あっ、今日の天気は?」
「え?今日ですか、雨ですが」
「(息を飲んだ音)いやだ、やだ、傘がない」
「傘?」
「知らないのか!傘がないと濡れちまう!(言語不明。おそらくイタリア語で何か叫んでいる。謝罪と懺悔?誰かに助けてくれと祈っているらしい)(直後に悲鳴)」
「! まずい、先生を呼んでください!はやく!」
(音声記録1)


「わすれたくなかった」
「何を?」
「シレスのこと」
「忘れてたのですか」
「そう」
「それはなぜかわかりますか?」
「あのひと」
「あの人とは?」
「いつも笑ってる。いまも」
「名前はわかりますか、その人の」
「なまえ? XXX」
「そ、それは、」
「わらってるんだあのひと、いつも」
「XXXがですか」
「そう。それで、おれが…お、れが… 」
「あなたが?」
「バジーリオはよくできました、ジーナちゃんダメな子ね、ダメな子には、おしおきしなくちゃ」
「ジーノさん?それは、確かあなたの」
「お、おれは、おれ、ジーノは」
「ジーノさん?」
「おれは忘れたくなくて、」
「なにを?」
「あいつのこと」
「それは、XXXさんのことですか」
「あぁ、だから、都合が悪くてな」
「それは、XXXにとってのジーノさんが?」
「あぁ、だから、おれは殺されたんだ。XXXの旦那でいれるうちに殺された。ここまでこないとおれがまともに話せないほど深くに沈められたとでも言えばいいのか?」
「でもあなたは生きて、」
「そうだな。どうしても忘れたくなかったんだ。捨てたくもなかった。でも、許してくれなかったから、全部持ったまま逃げた」
「それが貴方ですか」
「多分な」
「普段の貴方とはまるで、」
「まるで別人?そうかもな。少なくとも、今のおれははっきりしてる。だが、おれは覚えてないんだ。面倒かもしれないが他のに聞いてくれ。お前が知りたいのは他の奴が覚えてる」
「ジーノさん、あなたはなにを覚えてるんですか?」
「他の奴らが忘れたこと全部。俺が俺であることも、あいつのことも。それだけだよ」
(音声記録2)
極度のストレス環境と度重なる調教とでもいう劣悪な環境の結果、精神が分裂しているようです。
完治にどれほどかかるかわかりませんが、仮に多重人格であるとして、基礎人格は深いとこで眠っていると考えていいようです。
通常人格は支離滅裂かつ女の子言葉を使うことのあるジーナ。犯罪行為について覚えているのはバジーリオ。眠っているのが主人格のジーノのようです。
ジーナについては極度の混乱状態にあり、自傷及び自殺行動をと傾向が見受けられます。

以下略

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「…迂闊な真似を」

低い声で威嚇されることにはだいぶなれては来たが、それでもやはり嫌悪と怒気がたっぷりとにじみ出ている声を向けられることが居心地がいいわけがない。
すまん、と何度目かもわからない謝罪を繰り返したところで、眠っている彼女が倒れた事実には何らかわりはない。

「だからお前に返したくなかったんだ」
「…すまん」

ゆるく左手をなでるジーノ。黒い革手袋で隠されてはいるが、彼はその薬指に指輪をしたままだった。
重要物品として押収されていた指輪は押収品倉庫の奥で丁重に保管されていた。わざわざ金庫に入れてあったのは、その物品の関係者がすぐそばに生活していたためである。
盗まれる心配をしていたわけではないが、そうは言ってもぽんとそのへんに置いておくには問題があった。
それが返却されたのは、じつはだいぶ前のことだ。

彼が連日南署までやってきて指輪の返却を願っていたのもすでにかなり以前の出来事である。つまり、彼が南署のパシリとして仕事をするようになってからもそれなりの時間が経った。
その最初のうちに、指輪は彼に渡されていた。
本当であれば、あんな無茶な仕事を彼がする理由はなくなっていたのだ。

だが、ジーノが仕事を続けていたのは、すくなくともそうすることが何かしらの償いになると思っていたからだろう。なにかすることがあったほうが気が紛れるというのもあったのかもしれない。
だが、すくなくとも、誠意を表すにはちょうど良かった。

南署が設立されて以来、無尽蔵に積み上げられてきた様々な資料の詰め込まれた部屋。そこが彼の仕事場だった。すこし埃っぽい薄暗い部屋にはぎっしりと棚置かれ、棚の中には無数のフォルダがしまわれている。紙束といえど数が貯まれば相当な重さにもなるだろう。
そしてここにある資料は… 信じがたいことにあまり、整理されていない。
そのため、いちいち資料を探す時には部屋全体をひっくり返すような光景が度々繰り広げられる。そうなればどうなるか。ひっくり返された資料は、そうしてどこかへ紛れ込んでしまうのである。

ジーノに与えられた仕事は、それだ。
整理されていない無数の資料を綺麗に整理整頓し、出来うる限りデータとして入力すること。
数十年以上の歴史がある署に投げやりに溜め込まれたそのデータの膨大な量を考えるだけでもそれがどれだけ馬鹿馬鹿しい要望なのかはわかることだろう。
当然、言い渡した方は半ば投げやりな注文をつけただけだった。無理難題を吹っかければあきらめるか、本性がでるか。何かしらのネガティブな反応が見れるだろうと期待していたのだ。
…だが、結果は彼女たちの予想をさっくりと裏切っていったのだ。

結果、ジーノはこうして資料庫の主となった。
資料庫に備え付けられていた小さな閲覧室はもはや彼が仕事をしながら住み着くための部屋へと様変わりして、埃をかぶっていたソファや机も綺麗になった。
彼が持ち込んだ冷蔵庫とあたらしいデスクが増えたことで、その部屋はより一層、彼の個室になり、ほうっておけば彼は一日中だってその部屋で黙々と仕事を続けていた。

思ったより真面目な奴だと面々が評価したのも無理はない。
呼ばれれば出てきて、パシリを言い渡せばおとなしく従い、無理難題を吹っかけてもかれは二つ返事で話を飲んだ。彼の傷口をえぐるような真似だって何度もされてきた。
過去の犯罪と等しい行為をジーノに強いたこともある。もともとのこねを有効に使わせて彼に情報収集をさせたことだって、彼に危ない橋を渡らせたこともある。
……実際、彼が緊急搬送されるような発砲事件が発生したこともあった。
それでもジーノは一度たりとも首を横に振ったことはなかった。

思えば、それだけ、愛情が深かったのだろう。
他でもない、この南署で保護されここで生活している彼の妻に対して。

目の前のベッドで眠っている人物こそ、彼がこれだけ悪辣といっていい職場に身を置いてでも見守りたかった相手なのだ。
たとえ、彼女が何もかもを忘れていたとしても、彼は変わらず愛し続けていたのだ。…色々と拗れてしまった事情はあったが。

はっきりと言って、南署におけるジーノの扱いといえば腫れ物扱い。いや、そもそも存在してないかのように扱われることがほとんどであった。
誰ひとりとして友人もおらず、顔見知りといえば唯一が葉落のみ。肝心の妻に至っては、自身の最大の汚点でもある失態によってジーノのことは愚か自分のことでさえ忘れてしまった。
他の署員は妻をそこまで追い込んだ上に彼にたいしていい感情など持ち合わせてはいないし、そもそも、葉落が連れてきた彼女のことを誰もが親心のようなもので見守っていたほどである。

…風当たりが厳しくないはずがないのである。

彼の住み着いている資料室に近寄る人間は、結果として誰もいなくなった。もともと人がろくに近寄るような場所ではない。どうしても利用しないといけない場合にのみ誰かが利用するような埃っぽい部屋に、なおさら人が寄り付かなくなっただけだ。

唯一、彼の妻である彼女が時々こっそりと訪れていた以外には。

「…すまん、もっと気をつけるべきだった」
「言っても遅い」
「…すまん」

知らなかったわけではないのだ。
誰かがあの人の寄り付かない部屋にやってきていることくらいわかっていたし、それが妻であることなど当然知っていた。

油断、していたのだと思う。

彼女が会いに来ることにどこか安心していたのだろう。喜んでいなかったなどと口が裂けてもいえない。だから、どこかで… 昔のようだと油断していたのだろう。

手袋をしていたのは彼女に直接触れないようにしようと気を使っての結果であったし、そしてそれ以上に、指輪をしていることを隠そうとしていたからだった。
だが、ついに見られてしまったのだ。休憩がてら昼寝をしていたときに手袋を外して寝てしまったのだ。

彼女の悲鳴で飛び起きた。部屋の前で座り込んだ彼女が震えながら、こちらをみていた。
思わず立ち上がった彼女が、その直後ふらりと倒れこむ。足を悪くして大分経っているのだから、急に立ち上がれるはずがなかった。

「シレスっ」

倒れこむ時の大きな音がろうかに響いた。
頭を抑えながらうずくまる彼女の苦しむ様子に、思わず抱きしめてしまう。少しでも痛みが軽くなるようにと呻いている彼女の頭を撫でながら。

「シレス、っ、大丈夫か、シレス」
「っ、あたま、 いた、」

ぎゅうと彼女の手が服を掴んだ。痛みに耐えるように力が込められた手を握りながら、「思い出すな」と咄嗟に口にしていた。

「思い出すな、思い出さなくていい… 俺のことは、忘れてていいから…忘れてていいから…だから、お前は、幸せになってくれよ…」

力を込めすぎて白い腕の力が抜ける。

「…シレス?」

辛そうな顔をしていた彼女を心配して、その顔を覗き込む。
ぼんやりとこちらを見た目が、一瞬、かっと燃えるように開かれて、鋭い一撃がその右手から繰り出される。当然防ぐことも避けることもできずそのまま顔面で甘んじて受けた。
ばきぃ。いたい殴打の音。そのまま床に倒れ込んだ彼に、馬乗りになったような形で彼女がぽろりと涙をこぼした。
ぼそりと、彼女が何かをつぶやく。

顔を上げた彼女が、もう一度叫んだ。

「ば、か!!!!しあわせに、なれっ!!!ばか!!!」

もう一度、頬につよい痛みが走る。

「しれ、」

す。

名前を呼ぶ前に彼女がとさりと倒れこむ。頬を彼女の手が撫でたかと思うと、ぎゅうとキツくつねあげられる。

「いひゃっ…!? ひ、ひれひゅ!?」

ジーノの胸の上で臥せった彼女の顔は見えない。起きているのかどうかもわからないが、すぅと細い息は寝ているように聞こえた。
しばらくしないうちに職員がやってきて、何事かとこちらをみた。
…引き剥がそうとしても、思いのほか彼女の力が強くてうまく引き剥がせない。
どうにか起こしてもらい、彼女をつれて医務室へ行ったのが数時間前のことであった。
少しずつ指を解いてシレスをベッドに寝かせ、ちかくの椅子に腰掛けてしばらくたって、話は冒頭へ戻る。

眠り続けている妻をみながら、ジーノがそろりと指先を伸ばす。
その髪を昔していたようにやさしく梳いてから、その手を握ろうかと自身の手を彷徨わせ、ゆっくりとひっこめた。

「やっぱり、俺、いない方がいいんだよな…」

ぼそりとつぶやかれた言葉は思いのほか静かな部屋に響いた。
部屋にいた職員がちらりと彼を見たが、ジーノはじっと眠っているシレスを見つめていて振り返ることはなかった。

「結局、苦しめてばっかりで… 幸せにしてやれないで… それどころか、俺のせいであんなことになって… 俺といたら、不幸にさせてばかりだ」

振り返った彼の眉尻が情けなく下がっている。
その後ろで、もぞりとシーツがうごいた。

「… 、まえ、 は」

のろりと起き上がった彼女がぐっと拳に力を込めるのをみた。

「ばかやろう!!!!」

がたーんっ。椅子から叩き落とされたジーノが、そのまま上に落ちてきたシレスを受け止めながら床に倒れたのだった。

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夫婦喧嘩かよ

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