淫蕩公爵///
「人としての矜持を捨てるといい。それは君の枷になる。ここでは道徳とは踏みにじるもので、法とは破るものだ。弱者は強者のためにここにいて、強者は弱者を悦ばせる。素晴らしい場所だろう?ほら、君も、ここまで来たんだから。さぁ、人であることをやめてしまえ!ようこそ、我が城へ!」
男は俺を迎え入れた。
彼の熾烈な金の靡く髪は不揃いで、その身には何も纏っていない。
ぎらぎらとした欲望が噴出するかのような熱気と、そこに行けば戻れなくなるだろう恐ろしさの冷気が拮抗する。ふと、ここは何処なのかと、あたりを見渡したが、周りにはなにも、なにもなかった。
黒い壁に阻まれながらここが入口であることは知っていた。知っていたというのはおかしいだろうか。初めて来た場所で、ほんとうはこれっぽっちも知らないはず、なのだ。だが、なんとなく感覚で理解していた。
城の入口。豪華絢爛としか言えない狂宴の会場は目の前に差し迫っていた。
男は手を差し伸べながら、引きずりこまんとばかりにその銀にも輝いて見える瞳を細めて笑う。おいで、と呼ぶその先からは悲鳴と嬌声が渦巻いているのが聞こえてきた。
「来いよ、ほら」
男が笑う。身体に縫い付けられたかのようなリボンが、ねっとりとしたエロティシズムを孕んだ風によってゆらりと揺らいだ。首に巻き付けられた彼のリボンがまるで、入口から離れられない番犬の首輪のようにさえみえた。
あの先へ行けば、帰れない。わかっていても思わず、足を進めてしまいそうになる。ぞくぞくと身体を興奮させてやまない濃厚な精の香りが鼻をくすぐるからだろうか。誰しもが誰しもに持たざるをえなかった嗜虐心を刺激され、むくりと、己の中の欲望が鎌首をもたげ始める。
中へ、行きたくて仕方がない。あの中に入る。ただそれだけなのに、たったそれだけのことができない。足を掴まれているかのように、足が動かない。身体だけは素直に、感情に従おうとしているというのに。なぜ。
「なぜ」。
声が重なった。首をかしげた彼がなぜ、と繰り返したのだ。
「あぁ、そういうことか」
銀の目がぱちりと、やけに無邪気に瞬いた。
「君… そういうこと。ふぅん、そうか… さぞ辛かろうに、難儀なものだね」
気がついたら、目の前に男の顔が差し迫っていた。黒い手袋を着けている腕が伸ばされて、顔に触れる。黒いマニキュアもこの男には似合って見える。また少し、匂いがきつくなる。
男の親指が緩く頬を撫ぜる。胸の奥が締め付けられるように疼くのを冷静な自分が気味悪がっているというのに、背筋を伝う感覚に対してうすらと目に幕が張られていく。吐き気がするほど濃い匂い。
女と見まごうその姿は、だが誰よりもいま優位に立ち地獄へと魂を落とそうとしてる男であった。
その背後の城が見えた。
黒々と聳え立つ城の、悍ましさに目を見開く。唇に触れられる感覚に驚く暇もなかった。見えた、いや、見えてしまった黒壁の城の中では、血と精が男も女もなく絡み合い混ざり合っている。朗々と語る老女はあまりに醜く、傍でまぐわう精強な男をより際立たせた。
獣が吼えるかのような雄叫びは体内を掻き乱される歓喜に咽び泣く嬌声であり、喉が潰れんとばかりに響き渡るその嬌声こそ今しがた凄惨に絶命しようとしている悲鳴であった。びしゃり。引き裂かれた身体から飛び散った血液と臓物に入り混じり、絶頂の喘ぎとともに白濁とした粘液もまた撒き散らされる。
笑い声が、歓声が、城を震わせていた。もはやそこに一人たりと人などいなかった。欲望と悪意に手綱を取られた、およそ人をやめた怪物たちが淫蕩の限りをつくし、悪虐の全てを体現していたのだ。指よりも柔らかい肉が唇から離れたのはその直後であった。
込み上げる吐き気に、耐え切れなかった。
「いつでも来るといい」
優しくその手が俺の頭を撫でる。愛しい子供をあやすように、大切な壊れ物を扱うように、優しく、優しく。そして同じほど甘やかすような声で、彼は続けた。
「その無数の繋ぎを、しがらみを葬り去った時は、いつでもおいで」
なんのことかと理解する暇もない。そしてやはり、思わずぞっとするような笑みを浮かべて男は言う。
「いつか君がここに来ないことを祈ってるよ」
それじゃあ、と彼にいつの間にか掴まれていた手を離される。
ひらりと、これまたいつの間にか纏っていたマントがはためいた。
「そっちの俺によろしく」
男が背を向け、かつんとヒールを鳴らして城へと帰っていく。
口の中に広がった饐えた味のことも忘れて、あの男が、公爵と呼ばれる男が扉の向こうへと消えていくのを見ていた。あまりに重たい扉の閉まる音。地鳴りのような音とともに、また、人とは思えない叫びを聞いた。
は、と目を覚ましたのはその時だった。外からはちゅん、と可愛らしい鳥の声。日が昇り始めている清々しい朝を迎え、先ほどのいっそグロテスクでえげつないとしか言えない夢の光景を思い出してぐるぐると腹の底か掻き乱されるような心地がする。口付けの感触も、いまだ生々しい。
男に口付けられる夢を見るなんて、と釈然としない気持ちで起き上がり、そこで気がついてしまった。ぐっしょりと汗をかいていると思っていたが、股のあたりがやけに冷たいことに。まさか、と思いながら、やむをえない生理現象の痕跡にがくりとうなだれた。
湿って気持ち悪い服をさっさと脱ぎ捨てながら乱暴に冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干していく。味のしない冷たい水が喉を潤しながら、相変わらず残されていた苦味を洗い流していった。
そこで、はたと気がついてしまった。
ばっ、と今しがた抜け出してきたばかりのまだ暖かいベッドをみる。だが、どこにも自身が嘔吐をした痕跡は見当たらなかった。だが、口内には、どろりとした吐瀉物の味がはっきりと感じられる。
まさか。
「…あいつは、たしか」
あの男のことを自分は知っている。
両方が不揃いの金髪に、銀色にも見える灰色の目。やけに派手な服をきているから、どこにいても目につくのだ。……だが、自分の知っているその男は夢で遭遇した同一人物よりははるかにまともだと、少なくともそう思っている。
同時に夢で見た公爵と呼ばれた彼が最後に確かに、そちらの自分によろしく、などと言っていたことを思い出してしまう。
「…まさか、なぁ」
あれは夢だったのか。それとも、一体。
考えるほどに嫌なものばかりを見せられた、と気分が憂鬱になっていくばかりだ。
よし、忘れよう。
嫌な夢をいつまでも覚えておく必要はない。そうはっきりと結論をつけて、シャワーへと向かう。今日も今日とて、大学に行かねばならないのだ。もたもたしていると遅刻してしまうかもしれない。
そんな夢を見た後のことだ。
その日、見かけることのなかった目立つ金色を偶然街の中で見かけることがあった。大衆カフェのオープンテラスでのんきに座って、本を読んでいた。こちらに気がついた彼はにこにこといつもの人懐っこい笑顔で手を振っている。
そこまで親しい相手ではないが、まぁ見知った相手ではある。かるく手を挙げて返事をしながら、その場を通り過ぎた。ふと、夢のことを思い出して一度だけ振り返ったときには驚いたことにそこには誰もいなかったのだ。ただ、カフェテラスの机の上に一冊の本だけが忘れ去られていた。
どこに行ったのだろうか、と思いながら忘れ物の本を届けようかと近寄って辺りを見渡したが、周囲に金髪は一人もいない。少しばかりぞっとしながら、手にとったハードカバーの黒い本にはタイトルが踊っている。その文字を見て、思わず、本を落とした。
耳元で男の笑い声が聞こえた気がして振り返ったが、やはりそこにも誰もいなかった。足元におちた本の表紙は相変わらず、淫蕩学校という文字を描かれた城の絵とともに空へと向けているのであった。
mae/◎/tugi