ガラス容器へ愛をこめて///


不幸な男ともしかしたら幸せな男


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 威圧的な雰囲気を持っているが、内面に関して言えばかなり温和な印象の強い男だった。

 社長の傍にいつも控えている男だった。
 時折、同居人だという美形な男と夕飯の買い出しをしているような庶民的な姿も目にしたことがあった。意外だと思いながらも、あの男もふつうの男なのだとそのとき漠然と驚いたことは覚えている。

 優秀…だったのだと思う。社長にも信頼されていたし、少なくとも。

 だからこそ、社長が亡くなったときに一番気になったのは彼のことだった。
 忠臣、と影で呼ばれるほど社長によく尽くしていたから、社長がいなくなってしまえばどうなることかとかねてから冗談として話されてはいたのだ。敬愛する存在を失った人間がどうなるか、わからないほどの子供でもないのだから。

 結果から言えば、予想に反して彼は落ち着いていた。かなしい素振りを見せることもないが、社員は皆、彼がそうすることで自分を保っているものだと信じて疑わなかった。
 それは元々、社長といるとき以外には表情らしい表情さえ作らない男だったから、というのもあるけれど。みなそうやって、彼が社長の死後も悲しんでいないことをあまり疑問にも思ってはいなかった。

 社長の葬儀を取り仕切ったのもやはり彼だった。側近、とまで呼ばれていたのだし、別段誰も驚きはしなかったが。そしてやはり、代表として淡々と別れを告げる彼の目に涙が一つもないことにもあまり驚きはしなかった。あまり、人前で泣くような男ではないと誰もが理解していたからだろうか。それが異常なのはわかってはいても、異常だと思わせないなにかがあったのだと思う。

 その後の様子も普段通りで、いくらかの社員は血も涙もないのかと憤慨していた気がする。ただ、ほとんどの社員はそんな彼の心中を考えればそんな余裕がないことはひと目で分かった。
 そもそも会社の経営が傾く可能性だってあったのに、会社はあまり影響がなかった。ほんとうに有能な社長だったから、そういうふうに作っていたのかもしれないが、それに知って頭が欠けたとは思えないほど会社はいつもどおりだった。
 実際に社長の逝去が影響しなかったのは上層部が会社の存続のためにかなり苦労したからだし、上の面々……特に社長を敬愛していた面々……はそのことをちょっとだってそんなことを顔に出したりはしなかったが。

 トップが変わって多少の変化があったけれど、概ねそれまでどおりだったのは新しい社長もまた、前の社長を敬愛する人間がその座についたからだと思う。ほんとうに優秀だった社長の座に就くことを見ていて不安になるほど恐縮していた新しい社長の会見は未だ記憶に新しい。
 きっとこの会社は大丈夫だと誰もが安心したが、そこにあの男は既にいなかった。社長の傍にいつもいたから、社長が連れて行ってしまったんだ、と社内ではその噂がしばらく消えることがなかった。

 同じ街に住んでいるのに、彼の姿を見かけることはとんとなくなった。夕方になってスーパーで見かけることもなくなったし、夜中に行きつけだったらしい酒屋で飲んでる姿も見かけなくなった。早朝にびしりと決まった姿で出勤する様子をみることもなくなったし、昼間に近くを歩いている姿も見なくなった。
 あのやけに目立つ同居人の姿を見ることがなくなったのもその頃だったと思う。
 結構目立つ男だったから、どこにもいなくなったあの秘書が本当に社長につれていかれてしまったんじゃないかと思っていた。

 そのほうがどれほどましだったか。

 テレビである男が死んだことがひっそりと報道されていた。モデルだったらしいその男を近所で見かけたことがある街の人々は本当に驚いていた。それから、社員の面々はそのモデルが社長秘書と仲のいい人物であることを知っているものもいて、尚の事驚いていた。
 同時に、不幸に見舞われすぎてる彼がどうしているのか本当に不安に思った。だから最近、外で見かけることがなかったのかと納得したし、きっと相当に落ち込んでいるのだろう、と。
 もし見かけることがあれば、慰めにもならないだろうが一言くらい声を掛けようかと思ってはいたが、それからどれだけ街中を注意して歩いていてもその姿を見かけることができなかった。もっと思い切って、家にまで行っていればよかったのかもしれない。

 そしてそれからしばらくしたある日のことだった。偶然。本当に偶然、彼を見かけた。

 夜中のことだ。一人、いつもと変わらないスーツを身にまとってふらりと夜道を歩いていた。街頭も少ないコンクリートの道で、ベストもタイも全て黒で統一しているその姿がすっかりと真っ暗な道に溶け込んでいて一瞬ぞっとした。それから気が付く。あの姿は喪に服していたときのもので、人々が日常にかえってもなお、あの男だけが延々とあの時から進めてなかったことに。
 結局、声をかけることさえできなかった。その目がこちらを見ることもなかったが。

 服装を除けば、比較的いつもどおり精強そうな足取りで通り過ぎていく彼は、両手でしっかりと何かを抱えていた。布に覆われたその中身がなんだったのか、そのときはわからなかったが今ならわかる。


 その後、決心を決めてそのままついていった。なんとなく、様子がおかしいし、なによりこんな夜中にどうしたって心配でもあったのだ。……あまり親しかったわけではないが、それにしたって、心配してしまう雰囲気があったのだ。
 家へと戻っていったのを見て、気にしすぎだったかと息をついた。家の場所をしれたし、後日改めて伺えばいいか、とも思ったのだ。それから帰ろうと思って、思わず叫びそうになった。

 いつの間にか目の前にいたのだ。だってさっき、家の中に入っていったのを見かけたばかりなのに。いつの間に、とも思ったし、足音も気配もないまま目の前に立てれれば誰だってぞっとするだろう。

 「……あぁ、お前だったか」

 まじまじとこちらの顔を確認して、彼はどこか虚ろに見える目でそういった。よかった、こちらが誰だったかくらいは認識してもらえたのだと本当に安心したのを覚えている。その次の言葉に、ざらっと、砂粒のようになった頭の血という血が足元に落ちていく感覚に見舞われるのだけれど。

「オズワルド様に?」

 今、なんて?

「まぁいい、立ち話もなんだからな」

 顔から血の気が引くとはまさにこのこと。目の前の至って健康そうに見えるこの男は、たしかに見知った様子のままだったのだから。まさか、と引きつった顔になるのをどこかぼんやりとした目が気が付くこともない。足を止めたままのこちらに「どうかしたのか」などと問いかけてくる。どうかしているのはどっちだと文句を言いたくとも、口からはいえ、としか出なかった。

 背を押されて部屋へ入る。逃れようもないから、仕方がなく失礼します、と小声で答えながら。

 部屋は暗かった。暗闇にしばらくして目が慣れると、そこがリビングであることはわかる。室内をなにかが通り過ぎていくのが分かって思わずびくりと肩を震わせてしまったが、聞こえてきた「にゃあん」という声からそれがねこだと分かって目を丸くした。
 よく見れば部屋の端の方には猫用のかなり立派なスペースが設けられてて、意外な一面を垣間見てしまったと驚いた。いつの間にかその猫は彼の傍に寄ってきて、足元に控えていた。動物に懐かれているからか、その男が正気そうではないにも関わらず多少安心したのはここだけの話である。

 目が慣れてきて、別の一室からわずかに明かりが漏れていることに気がついた。ドアの隙間からうっすらと。あまりあちらの部屋も明るくはないのだろうし、この部屋だって夜中であることも手伝って真っ暗だというのに彼は慣れた様子でさっさとそちらへ向かってしまう。
 猫はそのうしろを静かに静かについていく。
 男の両腕は再び、布に巻かれたなにか… 抱え方からして、かなり大きめのわれもののようにも思えるなにか… を大事に持っていた。するすると歩きながら、彼がその布を取り払う。

 ぱさり、と黒々とした布が床に落ちるのとほぼ変わらない瞬間。扉が開かれた。

 部屋から溢れる光が彼を照らした。手元も照らしてしまう。案の定、彼が大切に抱えていたのは大きな瓶だった。液体が入って、ちゃぽりと揺れる。その中に浮かんでいるものが見慣れないものだったから、一瞬なんなのかわからなかったが。

 猫がするりと部屋へと入っていく。

 彼も部屋に入っていった。リビングに取り残されながら、恐る恐ると部屋へ近寄って、扉の向こう側を覗いてしまった。

 「ぁ」

 いくつもいくつもいくつも連なる瓶。大きさはどれも揃っていて、ただ水中に浮かべられている物体はどれも形が異なっていたことを覚えている。
 今しがた、几帳面そうに並べられている棚へと抱えていた瓶を中央付近の空いていたスペースへと丁重に並べる。びっしりとガラス容器で壁が埋め尽くされている中、空席のリクライニングチェアがぽっかりと空いていた。
 彼がそこに座る。背の高い男がいなくなったことで部屋がすっかりと見渡せるようになって、部屋の奥に備え付けられていた別の椅子が目に入る。

 キラキラと光を返すその黄金色の頭髪には見覚えがあった。陶磁器のように白い肌は、見知ったものよりさらに白く透き通っている。身にまとっている衣服に汚れは愚か余計なシワさえも見えない。
 ともすれば、まるで眠っているだけのようにみえるのに、彼が死人であることは明白だった。

 あれは社長だ。荼毘に付されたはずの社長が、そこにいたのだ。ぞっとするよりも、なぜ、と思うほどに整然と変わらないままの社長がそこで目を閉じていた。今にも起き上がりそうなのに、やはり、彼からは生気といったものを微塵も感じられない。
 精巧にできた人形か何かかとも思った。けれど、そうではないと、なぜか感覚が告げる。

 足が柔らかいものを踏んだ。よろけた足元で、先ほど床に放り出された布を踏んだらしい。明るい場所で、ようやくその布が元々、もっと白かっただろうことに気がついた。
 部屋の汚れを全て吸い込んだかのように。真っ黒に見えていた布はよく見れば赤黒く染まっているだけだったのだ。はっとして背を向けて座っている男をよくよくみれば、その綺麗に整えられた髪に、同じような色の汚れが見えた。まさかと思いながらも、その手が、べったりとした赤黒い汚れに染まっていることに気がついていよいよ鳥肌がたった。

 一体、何が。いや、どこから。そもそも、あれは。
 思わず全身に震えが起こる。指先が震え、足はいまにも崩れ落ちそうになる。少しずつ少しずつ指先から体温が失せていく感覚。その割に、妙にさえ切った頭はガラスの中のものと目を合わせてしまう。

 目。顔。指。足首。心臓。胃。頭髪。

 あれは。あれは、そうだ。人の体だ。見たことがある。あの顔を知っている。生々しい断面を見ながら、それが知っているものだとわかってしまう。テレビで見かけた色と、それからスーパーで見かけた顔と同じだから。あの目はこちらを見ている。知っている。随分と綺麗な色の目だと思ったことがあったのだ。

 吐き気がした。全身から体温が失せる。足元で猫が、こちらを見上げていた。

 「おかえり」

 声がする。穏やかな低い声は背を向けるその人の声。もう一つ、声がする。おかえり、と言う別の声。そのは、聞き間違えでなければ……ああ、やっぱり。眠っていただけなのかもしれない。何か事情が有って、この部屋にいるだけなのかもしれない。赤にも緑にも輝く不可思議な色彩が、部屋の明かりで煌めいた。俺をまっすぐ見ている。頭がくらくらとする。

 「おかえり、ベリアー」

 橙色の目が俺を見る。滅多に見ない、本当に嬉しそうな顔で。頭が痛い。猫の目が俺を見ている。ただいま。声がした。聞き覚えのある声。からからの喉に気がついた。聞き覚えがあるのは当然だった。今しがた声がしたのは、俺の。俺の。 おれの。足。黒いブーツ。そんな靴を履いていた記憶はない。ただそれが自分のブーツだと一瞬思う。あいつがおれを呼んだ。二色色彩。アレキサンドライトの目が笑っていた。













 その後、目が覚めたのは病院だった。
 話を聞いたところ、なんでも担ぎ込まれたらしい。運んできた人物のことを聞いたら、やはりそれは知った人物だった。あまり顔に表情が出ない長髪の男。曰く、この病院の近くで倒れているのを見かけたから連れてきたのだとか。
 詳しい事情を聞こうと戻ってきた時には既におらず。それがどこの誰だったかもわからなかったと言う。

 意識が落ちる寸前の景色は今でもはっきりと思い出せる。薄暗い部屋。ガラス容器。眠る男。後ろ姿。そして、こちらを見つめる猫の目と、そこに写る、赤毛の男。
 自分の髪を鏡でみても、やはりあんな鮮明な髪の色とは似てもにつかない。

 あれから、一度だけあの人の家の近くを通りがかった。ふと見上げた部屋にカーテンはかかっていなかった。大家の人に聞いたところ、住んでいた人物は引っ越した、とだけ返事があった。契約がどうのとか細かい問題もあったが、そのあたりは多額の払いによって解決したと別の噂で聞く。見せてもらった部屋は伽藍堂。何一つ、痕跡のひとつさえ残さずにその人は姿を消した。

 その後、とうぜんその姿を見ることはない。またこれも噂に過ぎないが、どこか遠くの地にいってしまったらしいという漠然とした話だけが残された。今ではもはや、あの人たちのことを噂する人さえもいなくなった。


mae//tugi
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