八月、日差しの強い日のこと。///
「あれ、教授」
教授、と呼びかけてその後何かいいかけたのだが、結局なんと言おうとしたのか思い出せなかった。自分が発した言葉だというのにその後に続けるはずの言葉を忘れてしまうとは。不思議に思うより先に、呼び止めてしまったから当然なのだが教授が「ん?」とこちらを振り返った。
一体自分はなんて言おうとしたのか。思い出すこともできないでいるうちに立ち止まった教授が「あぁ、元気かい?」とゆるく微笑んで言葉を返した。
はい、と答えるだけでいいのにそれもなぜかうまく言えない。教授こそお元気そうで、と気の利いた返答の一つも咄嗟に思いつかずに曖昧に頷くことでそれを返事とした。
「次も講義かい?」
「いえ、今日の分は終わったので…カフェにでも行こうかと」
「あぁ… それなら、いいところがあるよ。少し離れているが…西通りから公園の方に行く途中のクリーニング店を右に曲がってね、まっすぐ行くと古い建物があるんだ。そこをまた曲がって、左に行くとまた古いところがあってね… よく通ってたんだ」
「西通りの方ですね。あまり行かないので知らないです。…今度、行ってみます」
「うん、じゃあ僕もちょっと用があるから」
「はい」
ありがとうございます、と軽く頭をさげた。
またね、と教授が手を振って去っていくのを見ながら、あれ、そういえばと思い返す。
「教授、」
ふと、教授の名前が思い出せなかった。顔もよく知っていれば、名前だってはっきり覚えているはずなのに、思い出せない。名前を呼ぼうと思った時にその違和感に気がついた。ど忘れしてしまったのだろうか。まるで、もやがかかったかのようにはっきりとしない、言い知れぬ違和感がそれをきっかけに急にこみ上げてきた。
去っていく方向にはすぐ扉があるはずだ。なのに、やけに廊下が長く感じられた。
教授の名前は、なんだったか。知っているとわかるのに、今、呼ぼうとしているのに、やはり思い出せない。妙に足音がしないその人の後ろ姿を見ながら喉元まで出かかっている名前を思い出そうとして、足元が目に映った。
振り返りもしない教授がようやくたどり着いた扉を開ける。8月の眩しい日差しが白々と光って、視界を焼いた。
ウェザーは思わず目を細めた。そして、その時ようやく忘れてた名前を思い出した。
「空城、教授……?」
廊下はいつも通りの真夏らしい蒸し暑さと賑わいを取り戻す。そこでようやく、さっきまで廊下がやけに静かだったことに気がついた。ざわりざわり。聴き慣れた喧騒に包まれながら、ふと、真横の掲示板が視界に入り、ずらずらと並ぶ紙の中にあるひとつに視線が吸い込まれていく。釘付け、とはこのことをいうのであろう。
少し日に焼けて色が悪くなった紙はまだ残されていたのだ。そして紙面には相変わらず、教員が死んだことを告げる内容が記されていた。
その紙に記された名前と文面をみながら先ほど目に焼き付いた後ろ姿を思い出す。強い日差しに消えるとき。教授の向こう側が透けて見えたのは、なにも日差しによる錯覚ではなかったのだろうか…… などと思いながら。
それとも、やはりただの白昼夢だったのだろうか。今日もまた、格別に暑いから、そんな夢でも見てしまったのだろうか。
廊下の先には何もいない。誰もいない。異様に感じられた静けさもどこにもない。チャイムの音とざわつく喧騒が入り混じる廊下。いたって普通の日常が帰ってきた。その場から、ゆっくりと離れながら外へ出る。
青々と茂っている並木通りを抜け、学校の敷地から外へと出た。ふと、噂の西通りへと足を向け、アスファルトの学祭街を通り抜ける。ばたばたと慌ただしい声が聞こえてきてそちらに目を向けると、そこにはひっそりとクリーニング店が建っている。角を右に曲がると、まっすぐいったところに古めかしい建物が一軒見えた。
扉を押して開けると、からん、と涼しげな鈴が音を立てた。外の日差しは変わらず、強烈だった。
mae/◎/tugi