御隠居と世話役 IF話///

 あぁ、私のことを憶えていない。

 一目見た時に思わず浮かれて駆け寄った時のことだ。名を呼ぼうとして、振り返った彼の目を見てすぐにわかった。目線の動き方、瞳に浮かぶ色、頬の引き締まり方、唇の描く線、眉の上がり方。表情を作る要素を一瞥し、彼が「どちら様ですか」と言葉を発するより先に、落胆のため息をついてしまったほどだった。

「……どちら様ですか?」
「その色… 何の用だ?」

 見知った見目をしている彼とその学友だろう。周りにいた男児が私の首元のネクタイを確認し、敵対する寮の色であることに気が付きこちらをきつく睨みつけてくる。肌に視線が刺さる。視線に込められているのは敵視で、内訳としては嫌悪と疑念、警戒といったところか。殺意と呼ぶにはあまりに柔らかで、そしてあまりにも直球なそれは所詮は子供の抱く感情。だが、彼らにとっては全身全霊の威嚇だった。
 彼らの声音もまた同様であったが、唯一、私が用のある彼はこちらをじっと見ただけで口を開かない。すでに用件はおわった。彼が私のことを知らないのならば、もうこれ以上は何もない。
「……いや、こちらの勘違いだ。引き留めてすまなかった、失礼する」
 自然と漏れ出た声が自分で思ったよりも小さく、そして急ぎ早であることには気が付いていた。自分でも驚いたが、それくらい動揺していたようだ。

 すれ違うように彼の横をすり抜ける。一瞬、呼び留められて振り返ったが、その時に彼が驚いた顔をした理由が分からなかった。


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 そういえば、本当であればもっと昔に彼のことは手放そうと思っていた。市井の民に混じり、平々凡々に生きてほしいと願ったものだった。私や私たちが生きる血なまぐさく後ろ暗い世界からは抜け出してほしいと願っていた。
 それなりの村で、それなりの人々に受け入れられて、そこそこかわいい器量よしな嫁を貰って、子供をもうけて…… 決して、裕福とは言えないだろうが、貧しくもなく、憂いもなく、ただそうやって…… 普通に生きて、苦楽に笑い、いつか穏やかに眠りについてくれればいいと願っていた。
 一度目の人生が終わり、何の因果か二度目の人生も終わり、まさかの三度目だ。遅れて遅れて、やっと「普通に過ごしてほしい」という俺の願いが叶ったわけだ。
 やっと俺のことなんて忘れられたんだな。もう俺がいないって苦しむこともないんだな。俺のことを探してしまうこともないんだな。俺に縛られることもないんだな。ああ、よかった。お前の中に俺はもういないんだな。よかった。これで、普通の生活をしてくれるんだよな。危ないことはしないでくれ。ひやひやしてしまうから。普通に友達を作ったり、恋人ができたり、子供ができたり、そんな世間一般のありきたりな平和を享受してほしい。

 そうなってほしいと、あれだけ願ったのになァ。

 これでいいはずなのに、こんなにも。こんなにも……。
 俺はこの言い難い気持ちが何というのかすら知らない。寂寥感だろうか。喪失感だろうか。ともあれ、そういった、胸が空いたような感覚。その程度の気持ちさえ、的確に言い表すこともできない。
 もうこんな男の元になど帰ってくるな。やっと、やっと、俺のことを忘れられたんだから。今度こそちゃんと。平和に、穏やかに、健やかな、お前だけの人生を。どうか。どうか。幸せになってほしいのに、なァ。

===


「ごいんきょ、あのとき…」
「ん?」

 隣で意識を失うように寝ていたウェザーが、ぼんやりとした目でこちらを見た。その頭を撫でてやりながら「どうした」と続きを促す。久方だったので思わず”今まで通りに”散々抱いてしまったので随分とぐったりとしているが、まぁ明日に朝までに医務室に放り込んで置けば問題はないだろう。
 だが、ウェザーがぼそりと話し始めたのが、一体いつのことかわからず問い返す。
「あの時って、いつのことだ?」
「……こっちで、御隠居に初めてあったとき、ごいんきょのこと、おれ…きがつかなくて、」
「あぁ…… 憶えてないんだなとは思ったが」
 かれこれ数年は前になるだろうか。ようやく会えたと一瞬思いはしたのだが、あまりに怪訝な顔をするものだから記憶がないと判断しあきらめたのだった。実際、ウェザーは俺のことなど覚えていなかった。むしろ最初のうちは所属が敵対していたこともあり、随分と冷たい視線をよこしたものだ。
 それが、何の因果かまたもこうして懐に戻ってきてしまった。多少の申し訳なさと、優越感を感じてしまう。我が強い相手ですまないなと思いながら、ゆっくりと白磁の髪を撫でてやると、意識しているのかそうではないのか手にすり寄ってくる。この感触が好きだったなと思い出しては浸ってしまう。

 見知った姿より幾分も若々しい姿のウェザーが、一糸まとわぬ姿で甘えてくる。思わずもう一回、と興奮が隠し切れなくなりそうだが、これ以上はさすがに酷だろうとぐっとこらえた。
 冷静を装い、「それで」と再び続きを求めると、のそりと起き上がったウェザーは言葉を口にしようとしながらも俯いてしまう。たっぷり数十秒の間をおいてから、顔をあげたウェザーを見て、思わず驚いてしまう。
「ご、めん、なさい、俺」
 出てきたのは全く予想していなかった謝罪の言葉。何が、と疑問に思っている間に、俺を見つめる金色の目が揺らぐ。そして、まるで瞳が溶けるかのように涙が落ちた。頬を撫でるととろりとぬるい雫が手を濡らす。「泣くな、泣くな」と慰めながら、その目元に口づける。余計にほろほろと零れていく涙を優しく吸えば口の中に塩気が広がった。
「あのひ、ごいんきょのこと、泣かせて」
 だから、ごめんなさい。ウェザーはたしかにそう口にした。一瞬、何と言われたのかがわからなかった。はたと思わず動きを止め、「俺が?」と聞き返してしまう。
 こくりとうなずくウェザーがめそと泣きながら、抱き着くように寄り添ってきて「ごめんなさい」と繰り返す。
「あの時、すれ違った御隠居、泣いてたから。だから、思わず声をかけて、でも、気が付いてないみたいで、それで、おれ、おれ… ひどいこと、したって、ずっと後悔してて」
 どんどんと止まらなくなっていくウェザーのことをとうとう抱きしめてやりながら、背中を撫でてやる。ごめんなさいと繰り返す姿を見ながら「そうか」と納得をしていた。

 見上げてくる目元がすっかり赤い。時々、こいつが嫌がっても抱き続けたりして泣かせたときに見かけることはあるが、それでもなかなか見ることがない泣きはらした顔。そんなになるまで泣かせて悪かったなと思う反面、またこうして自分のために泣いてくれるのかとどこか仄暗い喜びも沸いてくる。
 どれだけ手放そうと思ったところで、結局、俺はこいつのことが大切で仕方がないのだろう。愛していると言っていいのだろう。
 そう思うと、あの日ウェザーが俺のことを覚えていないとわかった時の感情が今になって理解できる。あれが、あの時の感情が。
「ずっと、俺のことなんて忘れていればいいと思っていたが… いざそうなるとな、あぁ、かなしかった、みたいだ」
 寂しいなどと生易しいものではない。あの場で殺してやろうかとさえ一瞬思ったのだ。裏切られたような心地。しかしそれをも上回り、力を奪う途方もない、悲しみ。そんなものをいつの間にか植え付けられていたのかと思うと、驚くばかりである。

「……ご、いんきょ」
 俺を見つめるウェザーの目が丸く開かれる。ついでに、驚きのあまり泣き止んだらしい。ああ、そんな顔でこちらをみないでくれ。恥ずかしいから、と言ってもウェザーはずっとこちらを見続け、やがて眉尻を垂らして情けなく笑う。ウェザーの頬に当たり、弾けた雫がその頬を伝って流れていった。
 どこか嬉しそうに笑ったウェザーが身を乗り出し、俺の頬に口づける。その頭を押さえて唇を重ねると、口の中に再び塩気が広がった。


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BGMは『龍』

mae//tugi
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