フランスの田舎にあるこじんまりとした町だった。
しかしながら古き良き時代を思わせる石造りの建物がいくらか立ち並び、未だ現存する教会や噴水もまた、壁が年月を思わせるものの、それがまた一層荘厳さを醸し出しているような……そんな風景がある町だ。
町のすこし外れの方に位置する教会。全体が古ぼけた町の中で特に古びたこの教会に今はたった一人の人物が住み着いていた。
元々は老齢の神父が住んでいたのだが、彼が死ぬしばらく前にこの男がふらりとやってきて、引き継いだのだ。正直戒律を破っていることもあるその男に務まるのかと最初こそ人々は不安と不満ばかりだったが、今は町の生臭神父としてすっかりと落ち着いてしまっていた。他にやりたい人間もなかったし、かといって長らく彼らの傍にあった教会を空のまま放棄するにはあまりにも思いがありすぎた。

その日も聖堂に鎮座する像に祈りを捧げるでもなく、神父はどっかりと大きな態度で椅子に座っていた。
ぱらぱらと片手で本を流し読みしているようで、近くにやってきた子供に興味も示さない。ただ、ちらりと見やっては吸おうとしていたタバコを懐にもどした。

「…なんだ」
「ジュール!あそぼ!」
「見てわかるだろ、忙しい」
「うそだー!ぱらぱらしてるもん!」

ジュール。ジュール・ジョーヌブリエ。それが顔にうっすらと残る傷跡についても、どこから来たのかも、以前は何をやっていたのかも。何一つ語らない男の名だ。
舌打ちでもしそうなほど苛立たしげなジュールの膝に手をついて、少年がひょこりと本を覗き込む。自分たちが使う言葉ではない文字が綴られており、きょとんと首をかしげた。
遅れてやってきた数人も、「なんのほんー?」と無邪気に声をかけたり、その椅子に、ジュールその人によじ登りながら覗き込む。
背中にずっしりとした重さを感じながら、はぁ、とため息をこぼす。軽く体をひねり、登ってきた女の子を捕まえ、膝へと乗せた。

「…ジュールー、なんのほんなのー?よめなーい」
「そりゃあそうだろうなぁ」
「なんのほんなのってばー!」
「医学書だよいーがーくーしょー」
「…いがくしょ?」

じっと開いているページを覗き込む少年が、これなんて書いてあるの?と無邪気に問いかける。あー、と声を漏らしてから、指さされている項目にぴたりと動きを止めた。その文字を読み上げるわけにもいかず、ぱらぱらと違うページをめくる。非難の声が聞こえたが、無視をして、適当な病名の書かれた箇所に指を置き、読み上げた。

「メイグス症候群。胸膜炎。膿胸。肺とは胸郭の中にあるが、じかに胸壁に付着しているわけではなく、胸壁と肺の間には胸腔と呼ばれる袋状の空間が存在する。この胸腔の内面を覆っているのが胸膜と呼ばれ、何らかの原因でそこに炎症が起きる病気を胸膜炎といい、胸が痛んだり胸腔に水がたまったりする。感染、悪性腫瘍、肺循環障害、膠原病、消化器疾患、メイグス症候群、サルコイドーシス他のなどの原因が考えられる。症状は……聞いてねぇな」

つらつらと偶然目に入った項目を読み上げれば、しんと子供たちは静かになり、じっとジュールを見上げている。やがて、きらきらと楽しそうな、嬉しそうな表情へと代わり、口々に声を上げた。「ジュール、お医者さんみたい!」「なんて書いてあるかわからないよー!」「ジュール、すごーい!」「ただのふりょーしんぷさまじゃないんだねー!」と。

「不良神父って………まぁ、あってるか…」

いずれバレルことかと思いながらも、答えたくないので、本に書いてある言語についてはのらりくらりと交わしてはいる。だが、そんなことも気にしてはいないらしく、きゃっきゃと子供たちが周囲に積まれていた本を勝手に開き始めた。母国語で書かれているものを見つけ、読み上げ始めた。分からない語句も多いらしく、事あるごとに聞いてくるので、ジュールも自分の本を読む暇がなくなり、閉じる。汚すなよ、とだけ手短に釘をさせば、元気よくはぁいと声が帰ってきた。はたしてどの程度わかってるのかとため息をついたところで、ふと、一人の女の子が熱心に見つめてくることに気がつく。

「…どうした」
「…ねぇねぇ、ジュール…」

少し言いづらそうにしている少女をちょいと手招きする。うつむいたままだが、近づいてきた少女を空いていた左膝に乗せ、その頭を軽く撫でた。ゆっくりと顔を上げた少女にもう一度問いかける。深い緑色の目にじわりと水の膜ができるのが見えてしまった。ぽつりと、「ジュール、お医者様なの?」と聞き返した少女に、多少知ってる程度であり、医者と名乗る程ではないと断りをいれる。いま一度俯いて、とうとう涙をこぼし始めた少女に、片眉が跳ね上がる。仕方なしに、軽く引き寄せて、泣きやめ泣きやめと背中をさすった。どうにも逆効果らしく、わんわんと泣き始めてしまった彼女に、熱心に本を見ていた子供たちが視線をよこす。ぎゅうとしがみついてなく彼女にが、嗚咽に混じりながら話す。

「…あの、ねっ…、ママが、倒れ…たのっ!」
「…倒れた?」
「んっ……」
「医者は」
「頼め、なかったの…!たか、た、かくって…っ…ママ、良くならなくてっ…じゅーる、わた、わたしっ、どうしよう…!まましんじゃうよぉ…」

そういうことか、と合点がいく。この町に医者は少なく、それを生業にしているからか、時折足元を見ては法外な診察料や薬代をふんだくることがあるというのは、流れ者のジュールでもよく知っていた。しかし自分には多少医学の心得もあるし、世話になることも、ましてやそういった類に関わることもないだろうと踏んでいたのだ。それが、実際にはどうだ。こうして毎日遊びにくる子供たちの母親が診ては貰えないというではないか。このまま無関係を装い、追い返すことは簡単だ。もっともその場合、失望した子供たちは二度とこの教会へ訪れることはなくなるだろうが。
もう一度、ぐずぐずと泣き続けている少女の背中を撫でた。周りの子供たちの表情も些か暗い。ぽつりと一人が、「…リリーが…熱、出してるの…でも…おいしゃさん、きてくれない…」と呟く。じくりと何かが痛み出す気がした。それは忘れていた何かで、いや、必死に忘れようとしている何か、で。勘弁してくれと思いながらも、見捨てるにはあまりにも分が悪かった。

「ジュール…お願い…お、お金なら…わたしも、がんばるから…」
「ぼくも…ママのお手伝いがんばる…迷惑もかけないっ、だから…」

はぁ、とため息をついてジュールは立ち上がる。膝に座っていた二人を床に下ろして、周囲に置いてあった本を全て手早く持ち上げた。なおもジュールのカソックを掴んで縋る少女の手を引き剥がし、するりと子供たちの間をすり抜けて奥の部屋へと歩を進める。

「ジュール!」

鋭い悲鳴にさえ聞こえる呼びかけになんの反応も示さず、ばたんと扉をしめた。本を少々乱暴にソファへとおとす。少しの間、彼はぼんやりと立ち尽くしていた。全て忘れたいわけではない、だが、捨てたつもりだったのだ。たった一つのこと以外、全て。それを自身へのささやかな戒めとしていたというのに。あぁ、これではダメなのかと、首元の十字架へと指を這わせた。神に縋ることもできず、ただ、ぐるぐると思考が巡る。閉じられた扉が叩かれる。己の名を呼ぶ声が聞こえる。どうすれば良いのだと、目を閉じて、ベッドの下に追いやられたアタッシュケースを取り出した。

「…医者じゃあ、ないんだ。捨てたんだ。それが、俺の、誓いだから。」

懺悔のごとく、つぶやきながら、ケースを撫でる。ぱちりと留め具を外して開けば、かねてより共に過ごしていた器具たちがいつにもまして輝いて見えた。ぎちりと唇を噛み、静かになったドアへと視線を投げる。呼び声が聞こえた気がした。子供たちは呆れ失望して去っただろうか。
そう考えると同時に、やはりというか、ふつふつと後悔が湧き上がる。こうして自分を慕ってくれているらしい少年少女をむざむざと見捨てることが正しいわけがないと。

「……誓いって、変えてもいいかな」

続けるわけではない。やはり、やめたのだ。一人のこと以外の過去は捨てると決めたし、事実、捨てたのだ。それが罰せられぬ罰に科せられた自身へのささやかな戒めだと言い聞かせて。だから、これからは、捨てたものを拾い上げるわけではなく、新しく始めるのだ。それならきっと、許してくれるだろうと、独りよがりに考えて。
いつだったか。誰かに言われた。「勝手な人だ」と。仮にも神に従う身となったいまでも、おそらく治ってはいない。それどころか、半ば世棄て人のようになってきてしまって、悪化しているかもしれない。なら、やはり、いいのだろうと、頷いた。それに、きっとこんな些細な事では償いになどならないとわかっていた。許してくれるだろうが、きっと、赦されないと知っているから。
心を決め、扉をあければ、まだそこには泣き顔を晒した少女と少年が佇んでいた。ぽすりと足元に抱きついてきた少女の背中を軽くたたく。

「……医学を捨てて、大分たってるし、薬はない。」
「来てくれないお医者さんよりましだもん」
「…診るだけで、治せない」
「いいもん。いいもん。自分で本よんでみつけるからいいもん。」
「…」
「お金も、かせぐっだから、ジュール」

おねがい、たすけて。

くらりと目眩がする気がした。違う誰かの声が重なった気がした。そんなことはないとわかっていて、それがただの自分の願望だともわかっていたが。きょろりと周囲を見渡してしまった彼に、少女がいま一度声をかける。ぺろりと固く噛んでいた唇を舐めて、あぁ、と小さく乾いた喉から声を絞り出した。

「家、どこなんだ」
「…ジュール!」

ぱっと満面の笑みを浮かべた少女の声を聴きながら戸に鍵を占める。早く早くと手を引かれながら、ジュールは少女の家へと向かう。道中、ちょこちょことついてきた子供たちを家に返しながら。やがて、最初のようにうつむきながら手を引く彼女の後ろ姿に、あぁ、と声を上げる。何事かと振り向く少女の頭を撫でながら、彼は言った。

「診察料なんだが…」
「…う、ん」
「……聖堂の掃除な。」
「え?」
「あとベンチの下、綺麗に拭くように。」
「ジュール?」

金なんかとったらそれこそ祟られる怒られると肩をすくめたジュールに、少女は花がほころぶようにして笑い、頷いたのだった。



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ジュール・ジョーヌブリエと子供たち。
聖人になどなれぬ罪人の彼に、情景を見せるがごとく無垢な子供たちは、彼の過去の後悔と懺悔、そして償いの象徴でもあるのです。そんな彼の話。

まぁ、わかる人にはこれが誰なのかわかっちゃうでしょうけど。
似て非なるようで同一です。なにがどうしてこうなっちゃったって、そりゃあ、中の人の悪意という合言葉が駆け抜けるでしょう。

意外と気に入ってるのでまた書ければな!なんつて!

mae//tugi
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