随分と宵も深まった頃だ。誰もいないように錯覚するほど静かで、なんの物音も聞こえないように感じる。
木造の昔からあるような懐かしさを感じるその家の住民ももう寝静まっているようだった。
いや、よく耳をすませば一室から物音が聞こえるようだ。近づいてみれば明るいあかりが外へと漏れ出していた。あかりに連れられて虫が部屋へと入っていく様子が見える。ひょいと縁側に飛び乗って、その部屋へと近づいた。
聞こえていた物音はこの屋敷の主が紙をめくり、筆を走らせている音だった。男には思えぬほど長く豊かな黒髪をいささか鬱陶しそうに時折書き上げてはこちらの様子も気がつかないほど集中してなにかを必死に睨みつけていた。声をかけるのも忍びないほど、鬼気迫る表情をしている。いつも朗らかな男の姿ばかりを見ていただけに珍しいものを見た気にもなる。
書いているものがうまくいかないのか、男が書いていた紙を丸めて放り投げた。軽い音を立てて床に落ちたそれからちらりと文字が見えた。
「だめだ…終わらん」とぼやく声はだれかにいうわけでもないようだ。あいも変わらず男の見る先は一点、紙の上。ゆると揺れた長い紙に好奇心は勝てずじまい。近づいて無造作に散らばる黒髪の裾を踏みつけた。

必死に紙と対峙していた男は後ろに髪を引かれる感覚でようやく顔を上げた。少しだけ首を動かしてその原因を探れば、長い自身の髪の上に猫が一匹、座り込んでいた。
そこは座布団でもなんでもないぞ、と声をかけてみても猫は一つ鳴いて見せてそれで終わりだ。
やれやれとその猫を担ぎ上げて膝の上に乗っけてみれば、居心地が悪かったのだろう様子で身じろぎをしてからくるりと丸くなった。猫を持ち上げただけで長らく同じ体制をしていた背骨が音を立てた。
そのままなるべく動かないように気を使いながら紙に向き直った。明日までに終わらせねばならないのだ。もういち度最初から書き直し始めた。

そうこうしているうちに膝の上が寒くなる。
すぅっと風が通る感覚に頭を起こしたところで、いつの間にかねてしまっていたことに気がつく。
幸い書かねばならないものは書き終わっていることに安心しつつ、猫が立ち去る後ろ姿を見送る。それに続くように縁側へと足を踏み出そうと、重たい腰を上げる。妙な体制で座っていたせいだろう、今度は足の関節から軽い音がきこえた。
居間の前を通ればすでにもうひとりの住民がそこにちょこんと座っていた。テレビは朝のニュースを伝えていた。
「起こしに行けなくてすまなかったね」
と男が声をかければテレビを見つめていた彼女が振り向いた。それから、一拍おいていいの、と首を振った。忙しかったことまで知っているようだ。いつのまにかその傍らには先刻の猫が寝そべっていた。
娘がちゃぶ台にあった急須からお茶を注ぎ、男へと差し出した。
温かく美味しいお茶を飲みながら、男はいつもの定位置へと腰を下ろす。テレビに視線だけを向けながら、昨夜書き終わったものを思い出した。
書いてきてほしいと言われた内容所謂幸せについての一考だったのだが、というのもとある人物が幸せは計算できるという有名な功利主義を熱心に唱えていたからである。本当にそうなのかと自分なりに考えているうちに、こうして夜も更けていたわけだ。
猫が再び男の膝へと乗っかった。学校へと行く支度をはじめた娘をみながら、猫にぼそりと自分なりの結論を答えた。
幸せを求める式があるのならそれは素晴らしい計算には違いあるまい。ただ、それが全てではないのだろうけども、と。
さぁ、いい加減散らばったままの紙をまとめようと男は娘を見送った後、部屋へと戻っていった。
猫はにゃぁとひとつ。

mae//tugi
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