3.
事務所の窓から見える空は、薄く茜色に染まりかけていた。彼方に雲が見えるのが少し不穏だが、気にしても仕方がないだろう。俺はデスクワークに区切りを付け、軽く伸びをした。
「ふふ、精が出ますね。プロデューサーさん」
「ちひろさんこそお疲れ様です」
事務員のちひろさんがお茶を淹れてくれたので、お礼を言ってから口を付ける。
「そういえば加蓮ちゃんたち、レッスン室に居残って自主練習しているんですよ」
「そうなんですか」
「凛ちゃんと奈緒ちゃんはもちろん、加蓮ちゃんの意欲が高いんですって。これもプロデューサーさんの頑張りのお蔭ですね」
「なんでそうなるんですか……」
俺が苦笑すると、ちひろさんは頬に手を添えた。
「だってプロデューサーさん、加蓮ちゃんをよく気にして、大事にしているじゃないですか。来たばかりの頃なんか、アイドルになることを諦めさせないよう何度も説得して、前を向かせて。うふふ、最近じゃ放課後デートもしたそうで……」
「げほっ!?」
予想外の発言にお茶が気管に入り込んでしまい、慌てて咳き込む。
いや、あれは違う。断じて違うぞ。レッスン前に迎えに行っただけで仕事の一環だ。ちょっと時間が余ったから遊んだりもしたがあんなのあれ一回だけだ、何より仕事だ。そもそも何で知っているんだちひろさん。
俺は呼吸を整えながら、努めて冷静を装って答えた。
「俺はプロデューサーとして当然のことをしているだけですよ。やる気を出させるのも、レッスン前に迎えに行ったのも、それもこれも全て、本番で最高のポテンシャルを発揮して欲しいからです。俺は加蓮を最高のステージで輝かせてやりたい。『世界中に笑顔を届ける』というあいつの願いを叶えてやりたいんです」
「それだけですか? 本当に?」
ちひろさんは相変わらず意味有り気に微笑んでいたが、ややあって溜息を吐いた。
「ふう……プロデューサーさんもなかなか素直じゃないですよね」
「なんですかそれは……」
加蓮の夢はアイドルになること。それはもう叶った。だから今は、夢は叶うってことをファンのみんなに伝えたいのだという。俺はその手伝いがしたい、それだけだ。
「……まぁ……あいつの頑張り屋な性格は気に入っていますが」
小さな本音が口をついて出る。ちひろさんが何か言いかけていたが、それは勢いよく扉を開く音に遮られてしまった。
「プロデューサー!! 加蓮が……加蓮が……!!」
「……え?」
飛び込んできたのは奈緒だった。
「加蓮が、倒れた!!」
* *
「加蓮!! しっかりしろ、加蓮!!」
加蓮はレッスン着のまま倒れ伏していた。
その姿が、いつかどこかで見た女の子の姿と重なる。
記憶の扉が開き、急速に像が結ばれる。
リノリウム貼りの床。白い天井。鼻をつく薬品のにおい。倒れたまま微動にしない、自分よりもずっと年下の女の子――。
「プロデューサー……大袈裟だよ……」
加蓮が薄く目を開いた。重なっていた女の子のイメージが消える。
熱こそあるものの、意識ははっきりしているようだ。
傍らの凛が加蓮の額の汗を拭っていた。
「いきなり倒れて……、熱もあるみたい。そのくせ本人は大丈夫とか言うし」
「あ、ああ……」
「プロデューサーの方が青ざめてない? 大丈夫?」
くそ、大人が真っ先に取り乱してどうする――。這い上がってくる不安を押しのけ、俺は彼女達を安心させるように微笑んだ。
「いや……少し取り乱してしまったな。すまない。加蓮は俺が病院に連れて行くから、凛と奈緒は加蓮の荷物を取ってきてくれないか?」
窓の外は既に藍色に変わり、激しい雨音が響いていた。
「雨……降ってきたね……」
* *
「ああ、ちひろさんですか? 加蓮ですが、疲労から来る風邪だそうです。……はい、はい、これから家に送っていきます。明日は大事を取って休ませますよ。はい、宜しくお願いします」
事務所のちひろさんに電話で告げ、車を出した。ボンネットを叩く雨の勢いはしばらく止まりそうにない。
助手席に座る加蓮はぼんやりとした目のまま、遠ざかる病院の方角を眺めていた。
ややあって、ぽつりと口を開く。
「……久しぶりかな、こういうの」
ミラー越しに見るその姿は、……熱のせいだろうか。どこか色めいている。
「私、昔はほとんど入院してたって話したでしょ? ……学校にも行けなかったの。でももう治ったから、しばらく病院なんて行ってなかったのに」
なんかさ、昔のことも色々と思い出しちゃった。そう加蓮は笑った。
「……そうか」
――なあ加蓮。俺は昔、お前と会っていたのか?
その一言が出て来ない。
車内に横たわる沈黙を雨の音が埋めていく。
「……ねぇ、プロデューサーはヤクソクのこと、覚えてる?」
「約束……?」
――もしわたしがアイドルになれたら……その時はわたしを――
音声が蘇り、加蓮と記憶の中の女の子の面影が再び重なる。
「や、やっぱりなんでもない! 忘れて!!」
加蓮は慌てたようにそう言ったが、俺はようやく、幼い頃の記憶の全てを思い出していた。
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