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暖簾を潜ったのは、ヤマトと看板を掲げた、たぶん飲み屋。わかりやすくて、いっそ潔い。絶対日本人がやってる。すごいストレスなんだけど。

「平気か?」
「大丈夫です」

何か、マルコさんが待ってるらしい。不安がないわけじゃないけど、大丈夫。いや、人の袖を握りっぱなしで言うことでもないけど。物理って素晴らしい。

「やっと来たかよい」
「…どうも」

カウンターに腰掛ける、マルコさんとサッチさん。繁盛している店の中は殆ど兄さん、…と言うか、たぶん全員兄さん。

マルコさんの隣に腰掛けたら、おしぼりが出てきた。何の気なしに受け取ったけど、これ絶対此方の文化じゃない。

「Buona sera、Signorina」
「…Buona sera」
「Oh、Capisci l'italiano?」
「Could you speak english?I only know the greeting」
「Ok!But you are amazing!You can speak English even though Japanese」
「I didn't say I'm Japanese」
「はは、でも向こうから来たんだね?」

…このくそ野郎。日本語ぺらぺらじゃないか。マルコさんもサッチさんもぽかん、としている。確かに、此方で英語なんか聞いたことない。そもそも、イタリアがないのにイタリア語があるわけがない。

店の内装は、これでもか、と言うほど。色とりどりの国旗の中、飛び切り目立つ日の丸。世界地図に地球儀まである。嫌がらせか?嫌がらせだな?

「ごめんね。マスターは今ちょっと手が離せなくて」
「どうぞごゆっくり」

既に帰りたい。頬杖をついて首を傾げたわたしに、マルコさんが苦笑する。笑ってんなよ。あんたの所為だぞ。

「ご機嫌斜めな顔も可愛いね」
「は?」
「でも、折角なら笑ってほしいな」

するり、と髪が揺れた。何でって、こいつがわたしの髪に触ったから。いや、いやいやいや、それはないでしょ。何勝手に触ってんの。どういう、どういう接客よ。

「鋏貸してください」
「んなもん持ってねェよい」
「ねえ、鋏貸して」
「えっ、いや、そんなもん持ってねェよ」
「ナイフでも何でもいいから貸して」

椅子から降りて、メリオさんから手渡されたのは刃渡り20pはありそうな刃物。ダガーって言うんだっけ。重い。何でもいいわ。

「…おい、待て。イズ、何する気だ、」
「別に刺しやしませんよ」

ダガーを鞘から抜いて、後ろ髪をざっくり纏めて掴んだ。気持ち悪い。そんなに触りたきゃ切り離して叩きつけてやる。

「…何ですか」
「後で切ってやるからそれは止めとけ」
「嫌です切ります。今切ります。わたしは触っていいなんて一言も言ってない」

持ち上げかけた手を、大きな手が阻んだ。何。何で邪魔すんの。嫌だ。切る。絶対切る。今、ここで。馬鹿にしてんのか。何で見知らぬあんたに気安く触られなきゃならないんだ。

「イズル」
「わたしの髪です。邪魔しないでください」
「手ェ切るから止めろ」
「だから?何か問題あります?」
「イズル」
「うるっさいな!切るって言ったら切る!今!」
「イズル!」

今まで聞いたことのない声に肩が跳ねた。静寂が耳に痛い。外で誰かが笑ってる声がした。自分で癇癪を起こしてる自覚はある。冷静になったって切るけど。嫌なもんは嫌だ。自分から切り離さないと気が済まない。

「わかった。今切ってやるから手ェ離せ」

…離したら床に落ちるけど。何さ。いいじゃん。髪なんか。

「返す。ごめんなさい」
「…ったく、刺した方が余っ程ましだぜ」
「死体の処理なんかできない」
「お前のその度胸はどっから来んだよ…」

うるさい。知らない。



***

「お前、馬鹿だなァ。イズ口説くんなら心臓が三つは要るぞ」
「エネルギッシュな子だね。確かに一つじゃ足りないかも」
「気の強さだけは並じゃねェよい」
「イゾウに言い返せるんだもんなァ。うちの隊の奴らにも見習わせたいぜ」
「冗談よせよい。イズルみたいなのが何人もいたら、手が掛かってしょうがねぇ」
「はは、それは間違いねェな」




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