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注射は嫌いだ。刃物で斬られるより、銃で撃たれるより嫌いだ。加えて若干トラウマになっている節がある。

「もうちょっとで終わるわ」

丁度肘の内側辺りに針が刺さっている。たぶん。顔を背けているからわからない。特別痛いわけでもないのに泣きたくなる。わたしにできることと言ったら、針の刺さってない手を握ることくらいしか。

「…船乗った時はどうしたんだ?」
「あの時は大人しかったわよ?嫌そうではあったけど。まだ気を張ってたのかしらね」
「…リリーさん」
「はいはい…っと、よく頑張りました。ここ、押さえてて」
「ん」

握っていたイゾウさんの手を離してガーゼを押さえる。わたしは、こんなきっちり注射器で採血することになるなんて思ってなかった。わかってたら絶対断った。リノンがごねようとハルタさんが何と言おうと、絶対。

「イズルに苦手なもんがあるとはな」
「…イゾウさんは注射好きですか?」
「好きじゃねェが、別に嫌いでもねェな」

頭を撫でる手に寄り掛かったら、抱えるように腕が回った。意外と機嫌良いな。わたしの方が悪いくらいだ。

「あいつに協力なんかしなけりゃ、こんな思いしないで済んだのにな?」
「…ごめんなさいってば」

そうでもなかった。声は若干笑っているが。あいつってどれだろう。

血液採取だけ、というのが妥協点だった。相当渋々。この際、血液型だけじゃなく色々調べてみた方がいい、と。船医さんが乱入してくるから。年寄りは眠りが浅くて、なんて抜かしてたけども、わたしはあなたを年寄りとは認めない。機敏過ぎる。絶対許さん。

「ほっほっ、どうじゃ。ちゃんと採れたかの」
「ばっちりよ。ちょっと時間はかかったけど」
「ついでにイゾウもどうだ。ん?血の気が多いなら抜いてくか」
「抜いてどうする」
「どうしようもないのう」

けらけら笑いながら、血の入った容器を振って出て行った。何だ今の。抜き過ぎじゃないか。採血なんてそう何回もしたことないが。

「イズ。絆創膏貼るから指外して」
「ん…」
「大丈夫よ。ちょっと抜いただけだから」
「ん」

リリーさんが頬を撫でる。温かくて安心する。人の手って凄いなあ。魔法みたい。

「少し休んでって。サッチから何か貰ってくるわ」
「…ん」
「ふふ、いつもそのくらいでいいのよ」

それとこれは別。たかが注射。でも凄く消耗した。もう何でもないつもりだったけど、結構そうでもなかったらしい。泣き言なんて言いたくないけど、嫌に思い出してちょっと辛い。

「イゾウさん」
「ん?」

イゾウさんの指が髪の裾を遊んでさわさわする。言いかけてから止めたくなるの、これどうにかならないかなあ。言いかける前に止めたい。

「…一瞬だけ、ちょっとぎゅってしてくれませんか」

視線は膝の上にある自分の手を眺めていたから、イゾウさんがどんな顔をしたかは知らない。知らないけども、髪を遊ぶ手が止まった。視界に薄紫の着物が回り込んで膝を折る。伸びてきた指に催促されて、少しだけ視線を上げた。形容するなら笑顔だけど、何か妙な顔をしていた。駄目なんて言われないと思ってたけど、そう言えばわたしはイゾウさんの猛反対を突っぱねてる最中だった。

「…あの、」
「一瞬なんてつれないこと言うな」

伸ばされたままの腕の間に潜り込んで、首に手を回した。ぎゅう、と。圧し潰されてしまいそうな程、ぎゅう、と。温度と、匂いと、圧迫感と。他、何の要素が混じり合ってるかはわからないけれど。安心感に溶けそうだ。イゾウさんに浸かってるみたい。



***

「もう…嫌になるわね」
「ほっほっ、難儀じゃの。嬢ちゃんも頑固で結構」
「結構じゃないわよ。イゾウにも黙っててだなんて」
「言いたくないことの一つや二つあろう」
「言いたくないのは仕方ないけれど、それで我慢されちゃ我慢ならないわ」
「我慢すんのが我々の仕事よ。嬢ちゃんの仕事じゃないがの」
「その我慢をさせたのは先生だけど?」
「ほっほっ、よく聞こえんの」




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