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騒がしさを水で薄めて、真ん中に油を垂らしたようだ。中心は私と手拭いを被ったイゾウさん。こんな食堂のど真ん中で痴話喧嘩なんかしたくないんだけど。例えば部屋とか、どこかで二人になったら?掌の上で踊ってる場合じゃないんですよ。

「取り敢えず返していただけませんかね」
「イズル、悪かった。機嫌直してくれねェか」
「本当に悪いと思ってます?それ『もうやりません、ごめんなさい』じゃないですよね?」
「イズルだって撮ってんだろ?」
「話をすり替えないでください」

イゾウさんが不満げに頬杖をついた。不満があんのはこっちだわ。…ああ、でも。わたしも撮ってるは一理あるのか。

「もし、イゾウさんが写真撮られるのが嫌いだったなら、それは申し訳ないです。ごめんなさい。今後一切撮りませんし、今まで撮った分もちゃんと消します」
「んなこと誰も言ってねェだろ」
「じゃあ、わたしが撮ってるは免罪符になりませんね。返してください」
「…」

今度はきゅ、と眉を寄せて言外に不満を主張する。わたしが差し出した手を眺めていたイゾウさんは、何を思ったか、空の手を重ねて指先を握った。違う。わたしが欲しいのは反対の手の中にある機械…ちょっ、離せや。

「怒りますよ!」
「怒ってんじゃねェか」
「もっと!怒りますよ!返してくださいってば!」
「返したら消しちまうんだろ?」
「…わかりました。消しません」
「へェ、いつまで?」
「……0.3秒くらい」
「そういう嘘つけねェところも可愛い」
「うるっさいな、返してったら返して!」

机に乗り出して反対の手を伸ばせば、立ち上がって距離を取る。同時にかしゃ、と聞き慣れた機械音がした。今、あんた、今、何考えて、いっそ嘘だと言ってくれ。

「消してください!」
「何で」
「肖像権の侵害!盗撮は!犯罪です!」
「あァ、おれたちはそもそも犯罪者だからなァ」
「そういう問題じゃありません!嫌いなんですよ、写真撮られるの!」
「何で」
「だっ、…何だっていいじゃないですか!嫌いなんです!そういうことするイゾウさん、も、…き、嫌いとは言いませんけど!」
「おれは愛してる」
「誰もそんな話してないんですよ!」

思い切り机を叩いて手が痺れた。音が思ったよりも大きくて、視線が背中から左右から刺さった。こんな辱しめを受けたくて食堂にいたわけじゃない。晴れてたら。雨さえ降ってなければ。

「…あー、惚気なら余所でやってくんねェ?」
「惚気じゃありません喧嘩です。わたしは怒って困ってるんです」
「そんな手ェ繋いだまんま言われてもなァ…」
「イゾウさんに言ってください」

厨房から出てきたサッチさんが、呆れ顔でわたしとイゾウさんを見比べた。抜けないんだもの。指。痛くないのに解けない。

取り敢えず大人しく椅子に座り直せば、紅茶とクッキーを置いてってくれた。ありがとうございますいただきます。イゾウさんにはあげない。

「…撮ったら嫌いになりますからね」
「どのくらい?」
「…」

構えられたスマホの向こうで笑うような声がした。正しく笑ってるに違いない。顔の前に手を翳して、でもこのままじゃ飲みも食いもできない。

「悪かった」

その一言と一緒に手が離れた。次いで、翳した手の隙間から黒い板が置かれたのが見えた。手元に引き寄せて手を下ろせば、何となく眉を下げている。何だその顔は。何か。何でわたしの良心が痛む。

「…ずるくないですか?」
「何が?」
「そういう、何か、…罪悪感を煽ってくる感じ」
「そのつもりはねェが、それでイズルが折れてくれんなら幾らでも」
「何でそんなに拘るんですか」
「今のイズルは今しかいねェからな」

その理屈は、…わかるけども。折れたくないけど折れたい。所詮わたしの理由なんてその程度だ。皿から一枚つまんで差し出せば、そのまま口で受け取られた。違うそうじゃない。

「…」
「おれ以外見ねェよ。見せるつもりもねェ」
「わたしが見るじゃないですか」
「嫌か?」
「嫌です。…こう、あんまり言いたくないんですけどね、あんまり、その、写真写りが良くないと言うか、いや、そうやって言うと現実が見えてないみたいで嫌なんですけど、あの、可愛くない、いや可愛くなくてもいいんですけど、何か…あんまり見たくない顔してると言うか、そんなのがいつまでも残ってるの嫌じゃないですか」
「そりゃァ、撮ったやつが下手くそだっただけだろ」

笑って投げた暴論の代わりに、片手でスマホを取り上げたイゾウさんが慣れた手つきで操作する。似合わない。全く似合わない。と言うか、どれだけ触った。慣れ過ぎでは。

「…まァ確かに、実物の方が可愛いけどな」

そう、妙に満足気に笑いながらイゾウさんはスマホを差し出した。画面を埋める一枚の写真はいつどこで撮ったやら。背景が空だから甲板だろうか。…まあ、悪くはないですけども。



***

「うおっ、何の音…何だ、イズか」
「随分元気だな。どうした?」
「何か写真がどうのって言ってたぞ」
「写真?…あァ、あのよくわかんねェ板か」
「そもそもありゃァ何なんだ?カメラじゃねェんだろ?」




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