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昼はとっくに過ぎていた。いつも通り。でもリリーさんには内緒。朝食べろって怒られるから。案内できるほど精通してないし、扉を開けたのはいつもの店。

「いらっしゃいませ…あ、上空いてますよ」
「ありがとうございます」

にっこり笑ったお姉さんは、後から入ってきたイゾウさんを見てちょっと驚いた。そうよね。いっつも一人で来てた客が、いきなりイケメン連れてたらびっくりするよね。

「随分親しいな?」
「毎日いましたから。四…五日?」
「…あいつ」
「はい?」
「何でもねェ」

いや。いやいやいや。怖いよ。何おこ?まさか店員のお姉さんに、とか言わないよね?

注文を取りに来たお姉さんは、些か挙動不審だった。気持ちはわからんでもないが、そんなに?そんなにびっくりする?

「イゾウさんに渡したいものがあるんです」
「渡したいもの?」
「いらなかったら返してもらいますけど」
「いる」
「…まだ何にも出してません」

変な人。本当に、毒物でも出したらどうする気だろう。鞄から出したのは、白い紙。端から千切って名前を書く。

「…作ったのか」
「作ったんです。まあ、誰に渡す予定も、あんまりありませんけど」
「…一番はベイか」
「そこは諦めてください」

そもそも、そういう知識含めて教えなかったイゾウさんが悪いんだから。自業自得。

「代わりと言っちゃあ何ですけど、欲しいものがあるんです」
「おれのビブルカードか?」
「それも欲しいですけど」

喉が渇く。手が震えている。よくも、よくもまあ、こんなこと。しれっと言えたな、尊敬するわ本当に。上目にイゾウさんを見たら、何食わぬ顔で首を傾げている。ああ、もう。むかつくなあ。

「イゾウさんの、人生ください」

せめて、目を見て言えただけで大金星だろう。言い終わった瞬間、思いっきり顔反らしたけど。髪が伸びてて良かった。俯けばカーテンの代わりになる。と言うか返事。わたしの寄越せって言っといて、自分のはやらないとかないよね?泣くぞ。

「…あの、」
「今こっち見んな」

何。そんなこと言われたら見たくなるんだけど。向けられた大きな手のひらの隙間から、イゾウさんの横顔が見えた。片手で口元を隠して、見事に頬を染めて。何それ。そんな顔見たことない。

「カメラがないのが悔やまれますね」
「ふざけんな」
「ふざけてません。わたしの人生あげますから、イゾウさんの人生ください」

ちゃんと。ちゃんと覚悟決めてきたんだから。イゾウさんと一緒にいること。一緒にいたいこと。庇護下じゃなくて、隣がいいこと。ちゃんと、自分で選べるように。

「…敵わねェなァ」
「はい?」
「幾らでもくれてやるよ。心も、体も、人生も全部」

体の力が抜けて、口が緩んだ。向き直った目は火でも点いたようにぎらぎらとして、ああ、もう逃げられないなあ、なんて。自分から網に掛かりに行ったんだから、悔いがある筈もない。

「あの、失礼します…」
「あっ、はい!すみません!」
「いえ、あの…おめでとうございます」

料理を並べるお姉さんの笑みから顔を背けた。いや、だって、まさか、そんな聞かれるつもりは。なかったんだから。

「…ありがとう、ございます…?」

何で。何でそんな、お姉さんの前では白っとしてんのさ!さっきまでわたしよか参ってたくせに!



***

「ねえ!あの、お姉さんプロポーズしてた!」
「あのお姉さんって、テラスの人?」
「そう!今日は男の人と一緒だったの!いっつも何か落ち込んでる感じだったから心配だったんだけど!今日は全然、にこにこしてて!」
「はいはい、どうどう。それプロポーズされてたんじゃなくて?」
「してたの!人生くださいって!もう、やだ。かっこいい…」
「あんたのとこの彼氏とはどうなのよ」
「…まだちょっと人生貰うには早いと思う」




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