ようこそトラットリア『SPERANZA/希望』へ
『店の入り口というのは店の顔である』
 世の中にはそういう言葉がある。そんなの当たり前だと思われるが、重要な事だ。店の前にゴミが散乱されていたり、ウィンドウに指紋や土埃が付着して汚れて曇っていたり、飾られた植物が枯れたりしているお店に人は入りたいと思うか?と問われたら何と答えるだろう。もしもそれを聞かれたのが自分だったら、答えはNOだ。その店が飲食業なら尚更だと思う。物を食べる場所がそんな薄汚れていそうな所で喜ぶのは、せいぜいゴキブリやネズミぐらいだろう。
 
 僕がまずバイト先に出勤してからやることは店先の掃除だ。勤務8年になるが、それは毎回やっている行動。店長には凜が綺麗にしてくれたお陰なのか、お客様が増えて売上が良くなったと褒められ、僕が働き始めてから従業員達で積極的に掃除を習慣に取り入れるようになった。
 本日の天気は晴れ。店先のすぐ傍の中央広場では、白い鳩達が呑気な顔をしてベンチに座る老人から貰った餌を啄んでいる。実に平和的で、穏やかな日だと軽く鼻歌混じりに店のウィンドウを磨く。『日本語表記のメニュー置いてあります』とわざわざ作った張り紙を新しいテープで貼り直した。
「やぁ、お嬢さん。今お店はやっているかい?」
 作業をしていた僕の背後から、嗄れた声で話しかけられた。後ろを振り向くと、そこに立っていたのはさっき鳩に餌をやっていたお爺さんだった。足腰が悪いのか杖を付いているが、白髪交じりの金髪はひっつめ髪にセットされ、服装はきちんと糊付けされた上質なスーツを着こなしている。歳を取っても、ヨレること無く年齢に合った身だしなみをする人は素直に尊敬するものだ。
「えぇ、勿論ですよ、シニョーレ。ご希望の席はありますか? ご案内致します」
 咄嗟に笑顔を作り、店のドアを開けた。まだお昼前という事で客数は少なく、この時間帯にいつも来る常連客一人だけがカウンター席に座っている。
「それじゃあ……あそこのよく陽があたっている窓際がいいかのぉ」
 老人客が指定したのは、テーブル席で窓際にある隅っこの席だった。あそこならよぉく広場を眺める事ができるだろうと老人客は皺をくしゃりと曲げて笑うと、杖を頼りにヨタヨタと歩いた。
「! ……おっと」
「っ!」
 老人客は足が絡んでしまい身体のバランスを崩して倒れそうになったが、僕が咄嗟に身体を支えたので大事にはならなかった。
「すまない、すまない。歳は取りたくないの」
「……よければ、僕の手をどうぞ」
 嫌でなければお掴まりくださいと付け足すと、老人客はすまなそうにしながらカサカサとした細い手で僕の手を取ったのだった。

 常連のお客さんが帰ってしまうと、必然的にお店の中は老人客と僕だけになった。
 メニューを見るのに辛そうにしていたので、店に置いてあるルーペを貸出した事が老人客の話し相手になるきっかけだった。
 このルーペはいつも店に置いてあるのかとか、僕のおすすめするメニューを教えてくれとかそういう些細な話かからスタートした。老人客の好みな食べ物を聞き、その中から僕自身が美味しいと思うメニューをおすすめした。オーダーを通し、ナイフやフォークを揃えていると雑談は僕に関しての質問が中心となった。いつからこの国に来て働き始めたのとか、僕の故郷はどんな所だとか家族の事とかそんな話だった。その数々の問いかけには、嘘をつかずに当たり障りない事を答えた。こういう事に関しては、下手に嘘をつくと後々の設定を忘れてしまい、思わぬ所でマズイ状況を生み出してしまうのだ。
 老人客にできる限り柔和した情報を聞かせると、彼は僕の話を聞きながら孫でも見るような目で見つめてきたり、時々何やら鋭い視線を送ってきた。老人客が何を考えているのかはわからないが、僕はその視線を気が付かぬフリをしたのだった。
 ――老人客は頼んだ料理をペロリと平らげると、代金を支払い店を後にしようとした。店のドアを開け、見送りをしようとした時にとある事を疑問に持ち問いかけてみるのだった。
「お待ちくださいませシニョーレ。失礼ながら1つ質問をさせていただいても?」
「……おやおや、何かのぉ」
「どうして最初に声を掛けていただいた時に、僕の事を女だとわかったのでしょう?」
 はっきりと気がついていなかったが、さっきから喉に魚の小骨が引っかかったような違和感があったのだ。店外で作業をした時には少し離れた場所に座っていたし、話しかけてきたのは正面からではなくて背後からだった。老人客は僕の質問に、少し眉を引くつかせた。
「それは……」
「僕を背後から声を掛けてくる人って、大体は坊やとか少年とかで呼ぶんですよ。髪も短めですし、服装も含め見ての判断でしょうけど」
 どうしてわかってんですか?と更に畳み掛けるように問うと、老人は少し口を閉ざした。ただ単純に疑問だった。
「それはのぉ……年寄の勘っていうやつだよ。確かに君はパッと見は男の子のように見えるけど、ワシにはわかるのだよ。……あぁ、そうそう忘れておった。君にチップを渡すつもりだったんだ」
 老人客はポケットに手を突っ込むと、出したお札を僕の手に握らせた。
「……っ! いえ、こんなにいただけませんよ!」
「いいんじゃよ。いいんじゃよ。取っておきなさい、さらばだお嬢さん」
 手に握らされた金額は、トラットリアで渡されるチップの平均金額よりも倍に近い額だった。慌てて返そうとする僕を受け流し、さっきよりも足取りはスタスタと軽快にして去っていく老人客を呆然と見るしかなかった。質問を上手くはぐらかされたとか、さっきまで覚束ない足取りだったくせに結構しっかり歩けるじゃないかという変な蟠りが増えて、モヤモヤとした何とも言えない気持ちになったのだった。

「よぉ、プロシュート。ずいぶん疲れた顔してるな?」
「なんだホルマジオか。……いや、ちょっとな任務の帰りがてらに飯を食いに行ってたんだ」
「その割には、晴れない顔してるじゃねぇか。不味いとこだったのか?」
「そうじゃねぇけどよぉ……」
 プロシュートは、老人の姿での任務帰りに気晴らしに広場に寄って鳩に餌をやっていた。普段の姿ではちょっと人目を惹きつけてしまうが、老人の姿なら違和感はない。そんな時に凜に似た者が広場傍のトラットリアの店先に立っていたので、近くを寄れば本人だった。仲間の副業見学というのをやってみようと思って、声を掛けてみたのだった。店の雰囲気も味もなかなか悪くなく、凜の接客態度も申し分なかった。また今度来てみようと思ったが、帰り際のあの感じはもう行けないなと諦めた。少しチップを弾んで上手くはぐらかしたけど、きっとあの様子だとモヤモヤしているだろう。次行ったら何を聞かれることやら。
 腹を満たすのに飯を食いに行ったのに、逆に疲れた事になった。下手に仲間をからかうものじゃないと、肝に銘じるプロシュートだった。
*前表紙次#
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