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 やはり自分が見たものは、幻覚なんかではなかった。走るオレの後ろには、はっきりと見える太い木の根が迫りきている。ウネウネとまるで生き物のように蠢き、時々勢いよく根を伸ばして捕らえようとしてくる。走りながらそれを回避し、ようやく正面玄関に辿り着いた。
「くっ……! あ、開かないっ!」
 ドアノブを掴み、扉を開けようとしたがビクともしなかった。鍵が掛かっているわけでもなく、押しても引いても固定されたように一ミリとも動かないのだ。
「……逃げても無駄だよ」
 オレに身分を証明を求めた時と同じ冷たい声色が、背後から耳に入った。とうとう追いつかれてしまったのだ。
「酷いよ、ほんの一口だけでも口に入れてもくれないなんて……」
 名前は悲しそうな声をしているが、表情はさっき笑っていた時と同じ顔。オレを追っていた木の根は、名前の足元から伸びて這っていた。一体彼女は何者なのだろうと、疑問を持つが絶体絶命のこの時に考えることではないのだ。
 名前が一歩一歩ゆっくりと近づいてくる時だった。オレの腕から青い腕が二重にブレたように浮かんでいた。
『ドア二向カッテ、腕ヲ振リ下ロセ』
 頭の中で、オレに背中を押してくれた声がまた聞こえた。一か八か……!そんな思いを込めて、指示されたように扉に向かって腕を振り下ろした。
「……っ」
 あまりの驚きに声が出なかった。ただの扉に開かれた巨大なジッパーが現れ、外の景色がぽっかりと見えたのだ。
『逃ゲロ逃ゲロ』
 また頭の中で指示をされた。その声の正体はわからないが、自分の味方であるのは確定していた。オレはその開かれたジッパーから外へと脱出する事ができた。
 激しい雨が容赦なくオレに降りそぞき、服を濡らし走るスピードを遅くする。背後からは狂ったような奇声が聞こえ、引きずるような音が自分を追ってくる。暗い暗い視界も道も悪い林の中を、ただ自分の直感を頼りに走り抜けた。時々足首を何かに掴まれそうになったが、あの青い腕がそれを振り切ってくれたようだった。休むこと無く走り続けて、足が棒のようになって心臓がはちきれそうであったが、林を抜けるまでは止める事はなかった。

「はぁっ……はぁっ……」
 林からの出口を飛び出すように抜け出すと、その勢いで地面に転がり込んだ。息が苦しくて胸が潰されそうで、呼吸がようやく落ち着いたのはどのくらい経ったのだろう。仰向けになり空を見上げると、そこは眩しいぐらいの青空が広がっていた。寝っ転がっている地面も濡れているどころか、カラカラと乾いていて、濡れていたオレのスーツから垂れた雫で模様を作っていた。空間が途切れていたのかと疑ってしまいたくなるほど、さっきの豪雨が嘘のように穏やかな気候だ。
 鉛のような身体を起こして、乗ってきた車の元へ足を運んだ。車は特に荒らされた様子はなかったが、どこか違和感があったのだ。ほんの数時間だったはずなのに、やけに窓やサイドミラーが汚れていて車体には土埃がこんもりと乗っていたのだ。
「畑が近いからなのか……?」
 きっと風で近くのオリーブ畑の土埃が運ばれたのだろう。そういう事で納得をさせ、シートベルトをつけてこの土地から逃げるように車を走らせるのだった。

「生還おめでとう。この任務ができたんだ……お前はこの世界でも何とか上手くできるだろう」
 数々の疑問を抑えながら、オレは上司に受け取りサインが書かれた用紙を渡した。色々と驚愕の連続であったが、たった数時間だけ居たはずなのに実は数日経っていた事を知らされたのが一番の驚きであった。上司はオレの心境なんて知ったことないように、呑気に拍手をしていた。
「教えてくれませんか?」
「ふー……ブチャラティ、世の中には知らなくても良いことは沢山あるんだぜ?」
 上司はきっとオレが何を言いたいのかわかっているのだろう。長い溜息をつくと、ガキ扱いをするような事を言った。オレはその態度と言葉にムッとした表情を出していたらしい。上司はもう一度長い溜息をつく。
「……こっちこい」
 観念したように上司はオレをとある部屋に案内した。壁には油絵と写真がいくつか飾られ、タンスの上には林檎の置物があった。部屋の中央には真っ赤なソファーが置かれていて、その色にオレはおもわずビクリと身体を震わせた。
 上司はどっかりとソファーに座り込むと、ポツリポツリと昔話を始めた。
 ――館に住んでいた名前という女は、もともとパッショーネの構成員であった。林檎と絵を描くのが大好きで、マフィアとは思えないほど優しくて明るい性格の女だった。名前には普通の人にはない力があった。だが、とある日にその力が暴走してしまったのが原因で、その力に自我のほとんどを喰い壊されてしまった。半分は人で半分は何者か解らない彼女を組織は危険視したが、始末する事ができなかった。最終的に名前は、名前と同じような不思議な力があるあの館に幽閉される事になった。
 あの館の周りにある林檎の木は、林に迷い込んでしまったり、組織からの生活品の普及をしに行った新人の構成員が苗床とされてしまったらしい(これは、あくまでも憶測に過ぎない事だと)。
 
 だからこの使いという任務から帰ってこれた者は、この先マフィアの世界でも生き残る事ができるというジンクスができた。と上司は言葉を締めた。壁に飾られていた写真には、その上司と名前が楽しそうに笑う姿が写されていた。
 上司と名前がどんな関係だっただなんて、野暮な事は聞けなかった。
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