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 ここは実に奇妙な館だった。外観は失礼な言い草だが、本当に人が住んでいるのかと疑問に持つほどの幽霊屋敷に見えた。だけど実際に中に入ると、とても綺麗にされていた事に驚く。赤と白と金色を基調としたレイアウトに、壁の所々には男性の肖像画が飾られ、何処の場所も甘い匂いが充満していた。
 名前に案内されたこの応接室も、やはり別の男性の肖像画が飾られていて芳醇とした匂いに包まれていた。
「ねぇ、貴方は林檎はお好き? よかったら一緒に林檎の紅茶とアップルパイを食べましょうよ」
「……えぇ、林檎は好きです。いつもはそのままで食べますが、贅沢な感じがするアップルパイも大好きですよ」
 名前の問いかけに、オレはそう答えた。
 まだ両親が揃い、仲良く三人で暮らしていた頃。近所に住むお姉さんは時々みんなで食べてね、と赤々として艶がありゴロゴロとした大きな林檎をお裾分けしてくれる事があった。普段は林檎の酸味と甘味が同時に楽しめるので、そのまんま皮ごと食べることが多かった。だけど、たまに母さんがバターを沢山使ったアップルパイを作ってくれる事があったのだ。サクサクとした食感の良いパイ生地と焼かれて甘さが増した林檎。そしてバターの匂いが食欲を誘ってオレにとっては贅沢なご馳走にも思えた。でも、もう母のアップルパイを口にする事ができない。だからオレにとっては一生贅沢なドルチェになるのだろう。
「それなら良かった! 待ってて、今用意して持ってくるからね!」
 オレの返事に名前は嬉しそうに頬を緩ませて、勢いよく部屋を飛び出して行った。オレは彼女の背中を見送って、雨の様子を見るために窓際へと移動した。
 雨足は弱くなるどころか激しさを増して降り、窓をビシビシと音を立てて叩きつけていた。外に広がる林が黒々と生い茂られて、見つめていると心が飲み込まれてしまいそうだった。
「……そういえば」
 名前とのやりとりがきっかけだったのか、オレはまだ故郷にいた頃の事を思い出し呟いた。
 あの近所のお姉さんは、自分にとって初恋の人でもあった。優しく元気な人で時々くれる真っ赤な林檎が良く似合う人……それで、こんな豪雨が降った次の日に突然居なくなってしまった人。記憶が朧気ではあったけど、容姿もどこか名前とお姉さんは似ていたなと考えたら胸が締め付けられた気がした。恋をした時の切ないような心が躍るような懐かしい気持ち。
 このタイミングでそういう感情が芽生えるだなんて、オレはどこか頭がオカシイと思ったし、まるで淡い初恋の身代わりにするようで名前に失礼だと自分を叱責したが、段々思いは強くなり顔が熱くなって心臓はドキドキと飛び跳ねていた。
 この状態で名前と会ってどんな顔をすればいいのやらと、内心慌てているとオレは部屋の隅に何か置かれているのに気がついた。
「これは…………描き途中の肖像画?」
 あまり部屋の中をジロジロと拝見するのはどうかと思ったが、好奇心には勝てなかった。置かれている物を持ち上げて見ると、それは所謂油絵という感じで描かれた男の肖像画だった。だが、まだ描き途中のようで下書きの部分があって、近くには絵の具が床に転がっていた。
 ここの館に飾られた肖像画は全て名前が描いたものだろうか?どの肖像画も容姿が全く違う男性なのは何故なんだろう。奇妙だと思っていたのはもしかしたら、館だけではないのかもしれない。
 しばらくすると、コツコツと応接室に近づく足音とワゴンのような物を押す音が聞こえた。オレは素早くキャンバスを元の場所に戻し、ソファーへと座り直した。
「お待たせ! さぁさぁ、沢山あるからね。好きなだけ食べてちょうだいね」
 ニコニコと嬉しそうな笑顔にし、ワゴンを押して来た物を名前はテーブルへと並べた。紅茶やアップルパイの他にも、林檎を使われたと思われるドルチェがテーブルを埋め尽くしていた。よくもまぁ、こんなにも用意できたと関心させられた。そんなに林檎が好きなのだろうか、一人暮らしのはずなのに常にこんな種類の物を作っているのだろうか。
「どれも美味しそうですね……」
 少しずつ芽生える名前への不審な疑問を表情には出さないように、当たり障りのない感想をだした。
「当たり前よ、だってこれらは『生命の塊』ですもの」
 皿を並べ終えた名前は、オレの正面ではなく何故かすぐ真横に腰を落とした。どこか色気のある囁かな声と、触れそうで触れない距離感にドギマギした。
「……『生命の塊』?」
「そう。私が育てている林檎はまさに『生命の塊』。肥料が強ければ強いほど美しく、艷やかで美味なる林檎ができるの。そうね……精魂が駄目なのものは、数日もせずに枯れ朽ちるのよ」
「さっきから何を言ってるのか……」
 理解できない。そう続けたかったのに、それは叶わず喉元で消え去った。
 名前の声調は恍惚としているくせに、オレに向けるのはあの何を考えているのか全く読み取る事ができない無表情だった。じっとりと見つめてくる瞳は虚ろで、血色の良かった頬は病人のように色白くなっており、録音された若い女の声を出す無機質な人形のようだった。
――ミシミシ……
 早くこの館から抜け出さないと不味いのかもしれないと、頭の警鐘が鳴り響いた時だった。何か軋むような音がなり、薄っすらとした木の根のような影が部屋を這っていた。勿論こんな館内に木など生えていなかったはずだ。あまりの状況に嫌な汗が、全身の毛穴という毛穴から吹き出している気がした。
「……だからね、私は彼らに敬意を込めて描くのよ」
「…………」
「ちゃーんと顔を忘れないように、彼らの肖像画をね」
 虚ろな瞳で口元を三日月型にしてケタケタと笑う名前は、まるで自分と同じこの世の人間だと思えない薄気味悪さがあった。薄っすらとしていた木の根の影はどんどん色づき、ジワジワとオレの方へと這いずり向かってくる。
『逃ゲロ』
 頭の中で誰かに背中を押してくれるような声がした。強張り固まっていた身体は柔軟し、勢いよく応接室を飛び出した。まだ外は豪雨だが、それでも構わない。使いの任務は終わらせたし、ここにいる理由はもうないのだから。
「……逃げられなのにね」
 名前はブチャラティが逃げ出しても、ただ変わらず口元を曲げ笑っているだけだった。そして、紅茶を一口飲むと、ゆっくりと立ち上がったのだった。
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