に、シンジは寝不足の顔を机から上げた。目の前の席、ケンスケが目を輝かせて窓の外を覗きこんでいる。
「誰が来てるって?」
「渚だよ。渚カヲル。入学式以来一回も教室に来ない不登校児の渚君だ」
あー、と声を上げると、シンジはあげたばかりの頭を突っ伏した。おいおい、と頭の上から呆れた声が降る。
「超レアだぜ。見とけよ碇」
「ぼくはねむいんだよ……」
変な夢を見て飛び起きたのは午前二時のことだった。寝汗をぐっしょりかいたシンジは、荒い息を整え、けれどもすぐにベッドの上で首をかしげた。とてつもなくインパクトの強い夢だったのに、いざ目覚めて見るとどんなものだか忘れてしまっている。そうなると損をした気になるのが人間の不思議な所で、シンジは頭を傾けたりひねったりして必死に思い出そうとした。
結局、夢の内容はひとかけらも出てこないまま、気付いたら夜が明けていた。
「あのな、渚っていうのは」
まだ何か言おうとしていたケンスケは、教師がドアを開けたために途中で帰っていった。シンジは窓へと首を曲げ、頬杖を突いた。黒板の前では日直の女子が新聞で気になった記事を報告している。ひと段落読むごとに誰かが茶々を入れて、一向に進まない。
二階の教室からは第三新東京市の景色が見えた。遠く立ち並ぶビル群はオブジェのように美しい意匠をしていて、その直線にふと手を添わせたくなる。
近代都市の中でも珍しい造形の街を眺めながら、シンジはその景色をなつかしく思う自分に気付いた。どうしてだろう、まだ何カ月も住んでいないはずなのに。それとももう慣れたということだろうか。
いきなり、耳元で拍手が起こった。はじかれたように顔をあげれば、記事を朗読していた女の子が深く頭を下げて教壇を降りるところだった。教師が出席を取り始める。次第に周囲に満ちていたざわめきは次第に止み、朝の静けさと一日のはじまりを伴った空気が教室に満ちる。
シンジは、背筋がぞわぞわするような、むず痒いようなそれを受け止める。こんな朝を何百回と繰り返してきた気がする。思い出せば、転校してきた日もそうだった。新しい環境を前に冷めたような気持ち、それでいてどこかにある緊張。それも、初めての感覚ではない。
シンジは転校なんてこれまでしたことがなかった。なにもない日々。それが第二新東京の全てだった。あの先生の家での生活の全て。
いや、ちがう、僕が一緒に住んでいたのは父さんと母さんだ。先生って誰だ?
眉を寄せたシンジは、すぐにその表情をくずした。ふわと大きなあくびをする。
さっきから、溜まった眠気が一気に押し寄せてきていた。出席点呼の、碇、の順番はとうに過ぎている。一時間目からいねむりはやばいだろう、そう思いながらも、肩から力が抜けて、自分がうとうとしてくるのが分かった。今まで考えていたことも忘れて机にうずくまる。日差しの暖かい方へと顔をずらせば、あまり働かなくなった目に窓の外の景色が入り込んだ。
第三新東京。アスファルトの上のペイント、木々に埋もれた赤い鳥居。少し離れた場所にある作りかけのマンション。
そこに響き渡る工事機器の振動を、眠りに落ちる前に聞いた気がした。


目が覚めると、夕方だった。
シンジは突っ伏していた顔を上げて、すぐに瞳にさしこんでくる赤い光を右手で遮る。教室は無人だった。がらんとした机と椅子の列に、一日中シンジの世話を焼いていたトウジとケンスケの姿はない。
今日一日のことはなんとなくだけれど覚えていた。まともに起きていたのは昼食のときだけだったように思う。泥のように鈍った体を何とか立ちあがらせ、椅子を引いた。机の横に下がった鞄を持ち上げて、引き出しの中にあるテキストを詰め込む。
どうしてこんなに眠かったんだろう、と思った矢先にシンジはまたあくびをする。頭の中に靄がかかったような感じだ。眠る前に何か考えていたような気がするのにかけらも思い出せない。
とにかく教科書を移し終えて、帰ろう、とシンジは思った。家には母親が夕食を作って待っている。もしかすると、早く帰ってきた父もいるかもしれない。三人で食卓を囲むのも悪くない。そうして一日を終えれば、明日が来る。次の朝を迎える間に変わらない毎日が続いていく。何も起こらない、それが当たり前の日常。
それにしても、とシンジは口を尖らせる。
「二人とも、起こしてくれたっていいのにな」
先に帰った友人たちにかるく悪態をついてから、シンジはようやく鞄を持ち上げた。リュック型のスクールバッグを背負ったところで、動きを止める。
さっきから、かすかに音が聞こえていた。
シンジは耳を澄ます。紙がすれあうほどの小さな音だ。けれどもそれは連続していて、何か曲のようにも思える。
教室を出てみれば音量が増した。赤い夕陽の落ち込む廊下にかぼそく聴こえている。とぎれとぎれの旋律は、それがどういった曲かまでかはわからない。それでも楽器は知れた。ピアノだった。
気付けば、誘われるようにその場を踏み出していた。窓から差す日がシンジの頬に模様をつけ、シンジの影は赤く染まった床へと落ちる。無人の廊下は長く果てしなかった。けれどその分ピアノが響く。足を進ませるだけ音が近くなっていく。
階段を昇るころには、曲の輪郭は大分はっきりとしていた。不思議な曲だ。何かを急きたてるように速く、軽妙で、その居所をつかませない。
きらびやかな音の連続はその弾き手の技量をも示していて、シンジの視界には目まぐるしく動く楽器の姿が浮かび上がる。まるで生き物の体内のようだ。正確に音階をきざむ指。鍵盤。五千五百の部品を以ってそれを伝えるアクション・メカニック。ハンマーがうねりを帯びしたたかに弦をうちすえる。
すべての構造が狂いなく稼働していた。八十八鍵の音階が精密に拡散する。
いつの間にか日が暮れていた。夕闇の迫る廊下には一条の光芒がさしている。光の漏れるその扉の上には、“音楽室”。シンジがそれに手をかけたとき、曲が終わった。
「開いているよ」
戸を開いた途端、その明るさにシンジは目を眩ませた。蛍光灯の白さに目がハレーションを起こす。それが止んだ時には、鏡のように磨かれたグランドピアノの前に見慣れない少年が座っていた。
「おかしかっただろう」
「え?」
少年は鍵盤の上に毛氈を敷いている。前髪の隙間から赤い目が見えた。
「曲だよ。このピアノは音が外れているんだ。鍵盤が壊れていてね。弾いてみるかい」
「い、いや、いいよ」
「そう」
蓋を閉め、鍵をかけて立ちあがる。少年は手ぶらだった。シンジが持つようなスクールバッグは傍らにない。
少年はシンジの横を通り過ぎる。その姿を追って黒い目が動いた。首を曲げたシンジの前、少年はスイッチに手をかけたところで振り返る。
「休んでいた間に調律されていなかったようだ。あとで音楽の先生に掛け合わないと」
「休む?」
「ああ、長い事ね」
「それじゃあ、君が」
「そうだよ。僕の名前は渚カヲル。君は?」
「僕は……」
言いかけた声がつっかえて、シンジは反射的に相手の反応を気にした。少年は目を細めたまま不安げな瞳に笑いかけ、そして先をうながすように右手を差し伸べた。
少し顔を赤らめてから、シンジは声を整える。
「僕は、碇シンジ」
その答えを知っていたかのように、渚カヲルは唇を綻ばせた。
「はじめまして、碇シンジ君」
スイッチが落ちる。

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