その香りに騙されていく


沈んでいく、溺れていく。

誰か救けて欲しい、と手を伸ばす。

其の耳元で声がした。

『誰に救けて欲しいんだ?』と。

誰に?

少しだけ考える。

救けてくれるならば、誰でも。

主の判らない声にそう返す。


『誰でも? 多くの人はお前に見向きもしない。只通り過ぎるだけだ』


人混みの中で感じる孤独が今胸の中に広がった。

其の声に間違いは無かった。

だから、その『誰か』を指定しなければならない。

赦されるだろうか、そんな事を望んでも。

『彼』ならば、屹度嗤って切り捨てるだろう。

拾い上げたりはしない筈だ。

私は――。

其の名前を口にする前に目が覚めた。

夢を見ていたのだと直ぐに気づいたが、泣いていると気付く迄、時を要した。

結構な量の涙が零れていた。

何が哀しくて泣いていたのだろう。

思い出せない。

ぼんやりとした思考を切り裂く携帯の音。

無機質な音が大音量で流れる。


「はい、色瀬です」

『仕事だ』

「判りました。何処へ向かえば善いですか?」


ベッドから降り、寝間着を脱ぎ捨てる。

洗面所へ向かいながら電話を終えた。

数分で完璧に身支度を整えた杏樹は家を出る。

目的地迄の時間は二十分程度。

準備運動には適した距離だ。

爪先で軽く地面を叩いてから、走り出した。

目的地に着いた時、『彼』は既に到着していた。


「お待たせしました、芥川さん」

「否、時間通りだ」


そう云い、彼は激しく咳き込んだ。

今日は何時もよりも調子が悪そうだ。

彼に気遣い等必要無い。

敢えて云うならば、此の任務を出来るだけ早く終わらせる事。


「もう一度確認するぞ」

「お願いします」


失敗等赦される筈も無い組織の仕事は何時だって綱渡りだ。

今日の任務は、武器の違法売買組織の殲滅と彼らが所持している顧客一覧表(リスト)の回収。

殲滅の中心に立つのは芥川で、回収に向かうのは杏樹だ。

探し物を見つける能力と其れを保護する能力は杏樹が組織内で頂点(トップ)に立つ。

というか、其れ位しか出来ない異能力だ。

自分の身は碌に守れないので、優秀な戦闘要員を警護に数人貰う事になる。


「行けるか?」

「当然です。問題ありません」


はっきりとそう口にすれば、芥川は錯覚程の笑みを見せた。

そして、杏樹に頼むと云った。

やる気が更に上がる。

最短で一覧表を入手し、直ぐに退避する。


「色瀬」

「はい」


咳き込みながら、芥川が片手を差し出した。

握られている訳では無いから、何かを渡されるのでは無さそうだ。

時間も無いのに、たっぷり三十秒の凝視。

杏樹が答えを出す前に、芥川は杏樹の手を握った。

握手、だ。


「あの……」

「健闘を祈る」

「……はい!」


もっと疾くに気付くべきだった。

芥川が普段と違う事に。

爆炎は眼前に迫り、杏樹は自嘲した。



その香りに騙されていく



title:icy



(2017/09/10)


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