区切られた青。
25mを泳ぎ終わり、杏樹は足をつけた。
馬鹿みたいに速度をあげて泳ぎ続けていたから、息は酷く切れていて、地上に顔を上げたにも関わらず上手く呼吸が出来ずにいた。
「先輩! 新記録です! 凄いです!」
タイムを計っていた後輩が瞳を輝かせた。
こんな無様な泳ぎ方に評価をつけてほしくない。
目の前に差し出されたその時間を払う。
「先輩?」
「……もう一本、行く」
「え? ちょっと休憩した方が……」
飛び込み台に立ち、プールに吸い込まれれば世界は少しだけ形を変える。
雑音から隔離された青の世界。
もう少しだけ生きることを許された世界。
現実が足を引っ張りに来たため、更に速度を上げた。
歓声が聞こえる。
自分とは無関係のものだ。
***
シャワーを浴びて、更衣室で着替え終わると、杏樹は一人先にその場から離れた。
協調性が無いとコーチに叱られたりもしたが、今は気にしない。
自分の中で『泳ぐ』ことの意味を探しているから、其れ以外のことに目を向ける余裕がなかった。
ただ今は何も考えずにあの水の中を自由に飛び回っていたかった。
人の気配を感じて顔を上げる。
数メートル先にいたのは……。
「七瀬、遙……」
「?」
「何この人誰だったかなあ、みたいな顔してるのよ!」
「事実だが?」
「無表情で冗談言うな、馬鹿!」
「暴力に訴えるのはよくないぞ、色瀬」
「ほら、知ってるじゃない!」
襟元を強く握って前後に揺さぶってみた。
が、思いの外、がくがくと動かない。
酔うんじゃないかと突っ込まれるくらいには、やってのけたかった。
悔しい身長差だと彼を睨んだ。
もう少し腕力をつけるべきかもしれない。
彼から離れ、杏樹は自分の二の腕を撫でた。
「珍しくそっちから近づいてきたと思ったが、もう終わりか」
「何それ。七瀬遙は私に近づいて欲しいの? 好きなの?」
「?」
「だから、その何言っているか理解出来ないって顔はするな!」
実年齢よりも幼く怒ってしまうところだった。
それが彼の罠かもしれないのに。
わざとらしく咳払いをして空気を変える。
「それで、七瀬遙はこんなところで何をしているの? 岩鳶とは結構距離あるけど? 何か用事?」
「色瀬に会いに来た」
「な……」
「一緒に泳ぎたくて誘いに来たのだが、駄目か?」
今度は捨てられた子犬のような瞳で見つめてくる。
しばらく会わない間に色々な技を身に着け過ぎだと杏樹は頭を振る。
誰の入れ知恵かなんて考えたくもない。
その提案を素直に受け入れ実践する遙の心情も考えたくない。
少し前までは水にしか――泳ぐことにしか興味を持っていなかったはずなのに。
「勝負を仕掛けて来たと受け取っていいのよね? 果たし状の内容を口にしたと受け取っていいのよね?」
「?」
「だーかーら、その顔をするな!」
何故一連の会話が漫才のような流れになっているのだろう。
いらいらさせて血圧を上げる作戦なのか。
それならば、なかなか上手い具合に効果的だ。
「七瀬遙」
「何だ」
「いいわよ、泳ぎましょう。ただし」
「ただし?」
「私が勝ったら、教えてもらうからね」
自分の中にあるのに答えが見つけられない問い。
彼ならば、いつもと変わらない表情でその答えを目の前に出してくれるかもしれない。
遙は、はあ……とわざとらしい大きな溜め息の後で、挑発的に笑った。
『俺に勝つ気かと』
海が消える夢
title:icy
(2017/08/01)
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bkm