殺して欲しいと叫んだ事の或る人間はどれ程居るだろう。
此のヨコハマでは、然う珍しい事では無いのかも知れない。
此処を歩く色瀬杏樹も其の経験を持つ一人だった。
『死』が安らぎの形だと思った事も多々ある。
酷い暴力から死の淵を彷徨い、心を殴りつけられ血を吐いた事もある。
死にたいでは無く、殺して欲しいと願ったのは、一人で死ぬ勇気が無かったからだろう。
あれ程人間に裏切られたのに、誰かに傍に居て欲しかった。
矛盾した気持ちすら身体を縛る棘に為る。
今はほんの少し落ち着いているとは云え、直ぐ又発作の様に殺して欲しいと懇願するのだろう。
其の様を思い浮かべ、醜い自分の姿に吐き気を覚えた。
「お早う、お嬢さん。中々素敵な本を手にしているね」
突然声をかけられた杏樹は慌て過ぎて、手にしていた本を落としてしまった。
乾いた音が混凝土に吸い込まれる。
「お、お早う、御座います……」
隠し切れない動揺の侭に落とした本を拾い上げる。
『完全自殺』の文字が躍る自殺志願者が愛読する……か如何かは判らない本。
書店で見掛け、突発的に購入した本だった。
宝物でも愛読している訳でも無く、未だ浅い付き合いの本だ。
暇を見つけてはぼんやり眺めるのが最近の趣味とでも云えるだろうか。
「ねえ、お嬢さん」
「其の呼び方は気持ち悪いから止めて欲しい、と希望を云ってみるけど?」
「御免ね。あんまりにも可愛らしい反応をするものだから、つい。そんな風に睨むものじゃないよ、杏樹」
「太宰君もそんな風に揶揄うものじゃないと思うよ」
「其の助言は有難く頂いておくよ」
「有難く頂いて『捨てて』おくよ、でしょ」
隠れた文章を表に引き出せば、太宰は嬉しそうに笑った。
何が嬉しいのか判らないけれど、此れ以上彼と接触する事を避けたいと彼女は距離を開けた。
「杏樹、如何したんだい? 真逆、あまりに格好良過ぎる私にトキメキを隠せないから――」
「わたし、今、小芝居に付き合う余裕無いので」
「そうか。少し残念だね。其れよりも君に届けたい物が在ったんだ」
「届けたい物?」
「ああ。素敵な贈り物(プレゼント)さ。一寸付き合ってくれるかい?」
怪しいと思いながらもついてきてしまった。
年季を感じさせる建物の一室。
以前は事務所として利用していたのだと想像出来る場所。
夜逃げでもしたかの様に多くの物が散乱する形で残されていた。
黴臭いソファに腰掛ける様促され、彼も隣に座った。
「……こんな場所に連れ込んで如何云う心算? お花畑脳内の少女でも善い様には捉えられないと思うけれど?」
「日々抱いている君の願いを叶えてあげようかと思ってね」
「わたしの願い?」
太宰の指先が杏樹の心臓部分を指す。
只其れだけで理解できてしまう自分が怖い。
其れ以上に歓喜している自分が怖い。
「有難う、と云うべきなのかな」
「さあ。私は私なりに杏樹を思っている心算だけれど?」
太宰が懐から取り出したペットボトルを奪う様に手にして、中身を飲み干した。
視界がぐらつく。
「お休み、杏樹。出来れば、此の悪夢の世界に二度と目覚め無い様に」
其れは太宰の心からの言葉。
死ぬ事が誰に取っても幸せな事だとは思わないけれど、少なくとも今の彼女は深い深い眠りに着くべきだ。
必要な時が来たなら、起こすから。
「杏樹……」
「太宰、君、わたし、は……」
「うん?」
「わたし、は、死にたかった、けど。ちょっと、だけ、貴方と生きたかった、よ」
其れは彼女の本心。
嘘偽りの無い儚い希望。
太宰は目を見開き、其れから微笑んだ。
「有難う。お休み、善い夢を」
彼の言葉を身体の深い部分で受け止め、意識を手放した。
眠ってしまった彼女の姿にそっと息を漏らす。
彼女の人生を変えてしまったのは自分だとらしくも無く感傷に浸る太宰。
あの時あの場所で杏樹と遭遇しなければ、彼女はごく一般的な幸福を手にし今も笑って生きていたのでは無かっただろうか。
無意味な仮定をしてしまう。
あの時、杏樹と太宰は出会い、今にも息絶えそうだった彼女に気紛れで手を貸した。
彼女が息絶えそうな状況を生み出したのがポートマフィアだったから、何となく、だ。
その結果が今の杏樹を苦しめていた。
無闇に手助けするものではないと学んだ。
手を貸すならば、最後まで見届ける覚悟を持たなければ為らない。
自分より先に死なれるなんて、何だか悔しいと彼は嘲笑って見せた。
不意に眠りに落ちた筈の彼女の指先が太宰の服を弱々しく掴んだ。
まるで彼の内面を読み取ったかの様に。
「杏樹?」
返事は無い。
反応も無い。
駄々を捏ねる子供をあやす様に彼女の手を自分の上着から離した。
「……お休み。そして、また目覚める恐怖を味わうべきなんだ、君は。そして、私も」
鮮やかな悪夢と眠る
title:icy
(2017/06/19)
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bkm