あんたがいないと腹も減らない


晴れ渡る青空を自室の窓から眺めた杏樹は誰に見せることも無い笑みを浮かべた。

儚く今にも消えて終いそうなか弱い笑みだった。

不幸自慢をするつもりはない。

自分を憐れんだりはしない。

けれど、少し落ち込む時だってある。

それが今なだけだ。

気分転換にと本棚から一冊抜き取る。

読み込んでいるそれは色褪せて疲れ切っているように見えた。

杏樹のお気に入りで、これを抱くと其の時の――。


「ちょっと、聞いてる訳?」


耳元に直接響いた声に驚き飛び上がった。

声の主を捕える為に首をゆっくり動かすと、まさかの『彼』がいた。

今杏樹が抱いている本――戯曲の作者・泉鏡花大先生だ。


「泉さん、どうしてここに?」

「わざとらしい其れ要らない。気持ち悪い。止めないと、あんたの部屋燃やすよ?」


なかなかに恐ろしい言葉だ。

言霊として現実に現れかねない。

杏樹は深い溜め息を吐いた。

それから、彼と目線を合わせた。


「鏡花くん、今日の用事は何? 何も約束していなかったと思うんだけど。尾崎先生からもなにも聞いていないし」

「何? 理由がなきゃここに来ちゃいけない訳?」

「そんなことはないけど……」

「あんた、面倒くさいよね」

「鏡花くんに言われたくないんだけど」


人として確実に面倒くさいの部類に入る鏡花に言われてしまえば、何だか――。


「失礼な事を考えている顔だね。あんた、顔に出易すぎ。其のうち騙されて酷い目に遭うよ」

「否定しきれない……けど、鏡花くんが助けてくれるでしょ?」


鏡花はそっぽ向き、短く『出かけるよ』と口にした。

今から外に出ると言う意味で間違いないだろうかと思考回路を一生懸命動かす。


「別にあんたを連れ出してあげようとか、そんなんじゃないから、勘違いしないでくれる? 川上に頼まれた――……杏樹?」

「ごめん。何でもない」

「それだけ肩を震わせて無理ありすぎじゃない? 何笑ってんだよ、馬鹿」


こつんと拳骨一つ。

潔癖症な彼にしてはちょっとだけ珍しい。

其の後で思い切り手を布巾で拭かれてしまったけれど。

並んで歩けば、少し違う風を感じる。

然う言えば、暫く引き篭もっていたなと今更思い出した。

其の時、小さくも存在を主張する鳴き声が足下から聞こえた。

小さな小さな子犬一匹。

迷子だろうか。

しゃがんで、人懐っこそうなその頭に触れる。


「ちょ、杏樹何してるの!?」

「何? あ、ごめん。鏡花くんは犬苦手だったよね?」

「別に苦手でも嫌いでもないさ。ただ道を塞ぐその態度が許せないだけ。ひっ」


鏡花の手も強請ろうとした子犬は彼に思い切り避けられてしまった。

其の理由がわからず、小さな頭を傾けている。

なんて愛らしい姿なのだろう。

杏樹はもう一度子犬の頭を撫でる。

愛らしい鳴き声も携えるこの姿は最強兵器のようにも見える。


「杏樹、そんなものに構ってないで行くよ」

「え?」

「取り敢えず、先に手を洗ってくれる? それから消毒して……」


後は小声になってよく聞こえなかった。

近くの飲食店に入り、すぐさまお手洗いに押し込まれたのだけは確かだ。

石鹸で手を洗った後で鏡花に消毒された。

其の侭此処を出るかと思いきや、彼は席に着いた。


「何驚いた顔してるんだよ、愚図。お腹減ったんだから、付き合えば?」

「鏡花くんと一緒に御飯……?」

「何? 文句ある訳?」


文句なんてない。

けれど、赤い顔を隠し切れていない鏡花が可愛くて、杏樹は小さな声で笑った。



あんたがいないと腹も減らない



title:残香



(2017/05/03)


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