「杏樹さん、少し訊いても善いですか?」
昨日(さくじつ)解決した依頼内容を纏めていた彼女を気遣う様、遠慮がちに声をかけた少年――中島敦。
愛用のペンを完成間近の書類を気にする事無く転がし、彼女は顔を向けた。
「何? 私で答えられる様な内容だったら善いんだけど」
照れた様に微笑する彼女の顔を直視出来ず、敦は視線を彷徨わせ乍ら、そっと口を開いた。
如何やら、太宰に押し付けられた報告書の作成で悩んでいる様だ。
「其れなら、其処の資料を纏めて……」
簡潔に判り易く纏められた助言に敦は頭を下げた。
其れから微笑む。
「助かります」
「只此処に居る時間が少し長いだけだから、敦君だったら何でも直ぐ出来る様になるよ」
「いえいえ、そんな事無いです。未だ杏樹さんや皆に助けて貰わないと……」
「謙遜も大事だけど、自信も付けようね。可愛い後輩ちゃんの為にも」
鏡花の事を出せば、面白い位に敦は取り乱した。
何と可愛い後輩なのだろうと口元を緩めてしまった。
自分にもこんな時期が在っただろうかと、少しだけ記憶を辿る。
何も無かった。
楽しい青春時代なんて無かったと一人落ち込んでしまった。
「杏樹さん、若しかしてお疲れですか? お茶くらいなら、淹れられますけど……」
「じゃあ、お願いしようかな」
「はい!」
柔らかな心遣いに感謝し、杏樹は其の隙に書類を完成させた。
***
古びた倉庫の前で杏樹は溜め息を零していた。
幾年か前に流行った不幸の手紙の様な呼び出し文。
自分の過去を知り、そのどす黒い背景に嫌悪を隠し切れなかった。
生きて行く上で過去は切れない。
影の様に足下から伸び、確かに存在する物なのだから。
其れは兎も角、今は目の前の『此れ』を終わらせるのが先だ。
幾つもの銃口を前に動揺の一つも見せない女は可愛げが無いだろう。
更に云えば、其れらの銃の特徴も判る。
避けられない事は無い。
最後の演舞と行こうではないか。
杏樹は短剣を手に混凝土の柱へと身を潜めた。
直後に響いた雨音。
時間的瞬間を見逃すほど落魄れてやいない。
「ねえ、早く死んでよ」
歌う様な声音で杏樹は踵(ヒール)で傷口を抉った。
潰れた蛙の様な悲鳴が空気に溶けた。
赤黒い液体に汚された靴を不愉快に眺め、溜め息を吐いた。
「幸せを他人から奪おうとするから、こうなるのよ。もう二度と私に関わらないで。ね?」
返事など期待していない。
相手の生死も気にしない。
此の状態で殺しに来る度胸と精神が在るのならば、喜んで受け入れよう。
「杏樹さん!」
大きな足音と共にやって来た気配。
杏樹にとって、太陽にも見える若者の姿。
自分の醜さを暴く様な光に、襲ってくるのは後悔のみ。
自己防衛的な事態だったとは云え、過去と同じ方法を選んでしまった。
杏樹は彼に駆け寄り、敦の身体を反転させた。
「え? え? 杏樹さん?」
「美味しい物食べに行こう! 茶漬け何杯でも奢ってあげるよ」
敦の鼻は確かに血の臭いを感じ取っていた。
杏樹は怪我をしていないのか。
何が起きているのか知りたい、聞きたい。
其れが怖くて離れたいのに、離れられない。
(どんな杏樹さんだって好きなんだから、少しくらい頼って欲しい)
敦の願いは届かない。
届く前に杏樹は知らん振りをする。
二人の想いは遠い距離で交錯する。
変わってゆくあなたをいつまでも好きでいられますように
title:icy
(2017/04/07)
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bkm