全ての細胞があなたに憧れている


手にしているのは折り畳み式のナイフ。

人を殺すには心許無い其れは護衛用にと貰った物だ。

其れで勝負に挑んだ回数は数え切れない。

せめて自分の身を守れる様になれと面倒臭そうに訓練に付き合ってくれた。

善い思い出だ……とは云えない。

其れさえ無ければ、杏樹は平和に生きて行けたのにと今でも後悔してしまう。

此のヨコハマの地でごく平凡に生きて、当たり前の様な幸せを手にして、自らの生を全うする。

然う思っていた。

其れに不満など無かった。

平凡過ぎる人生だと小さな愚痴は零せど、其れを変えようだなんて思いもしなかった。

世界なんて簡単に反転する。

其れを不幸だと思わないけれど、若干の不満位許して貰いたいと思う。


「太宰さん」

「んー?」


気の無い返事が届いた。

ソファに寝転がった彼を叱った国木田は今、敦を連れて出て行った。

同様に出勤していた社員は皆出払ってしまっている。

詰まり、今此処に居るのは、杏樹と太宰の二人だけ。

余り訪れない静寂過ぎる此の時間に心臓は早鐘を打ち、口内の水分は何処かへ蒸発してしまった。


「珈琲でも如何ですか? わたしで善ければ淹れますけれど?」

「そうだねえ。一杯頂こうかな」

「はい。準備しますね」


取り敢えず逃げ出したかったのと自らが水分を欲していたからと云う理由で給湯室へ向かう。

其処で一息吐く心算だった。


「……太宰さん、何故貴方が此処に?」

「事務所が静か過ぎて寂しいからさ、杏樹ちゃんと一緒に居ようかなと」


手には愛読書。

視線も愛読書。

其れなのに、痛い位に感じる存在感。

薬缶に水を入れると云う単純な事すら出来ない。


「杏樹ちゃんの愛は真っ直ぐだねえ」

「え?」

「ん? こっちの話。さあ、早く珈琲を淹れてくれ給え」

「あ、はい」


かちゃかちゃと不要な音を立てながら、漸く火にかける事が出来た。

其の間にカップと珈琲の用意をする。


「今日は如何します? 甘めですか? 苦い気分ですか?」

「んー……甘ったるいの」

「え? 善いんですか?」

「うん。杏樹ちゃんが淹れてくれる物凄く甘い珈琲が飲みたい」


疑問符(クエスチョンマーク)を浮かべながら、杏樹は頷いた。

甘党な彼女からすれば、その要望(リクエスト)は大歓迎だけれど。

鼻歌さえ歌い出しそうな位にご機嫌で作業を進めた。

二人分のカップとお茶菓子を持って来客用の椅子に腰を掛けた。

意外と快適な其の場所に向かい合って座る。

自分のカップを口に運ぶ。

大満足の美味しさだ。


「太宰さん」

「んー……?」


眉を顰めて激甘珈琲を口に含む彼の姿に何だか勝てた様な気がして心が躍る。

甘味を食べさせ続けて病気にでもさせてみようか。

其の時は付きっ切りで看病をする。

最期を看取る。

意外と怖い将来の妄想だ。

こんな自分を彼は屹度病んでいるだろう。

其れでも、甘く見逃してくれているのだろう。

杏樹が生き易い様に知らない振りを続けてくれている。

杏樹の道をそっと見守ってくれている。


「有難う御座います。此の御恩は貴方が望む最高の形でお返ししますね」

「一体何の話だい?」

「一寸した決意です。さあ、お茶会を続けましょう」

「……偶には善いね。こんな風に狂ったお茶会も」


ナイフは空を切り続ける。



全ての細胞があなたに憧れている



title:icy



(2017/04/05)


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