6 女の子ならみんなときめくよ!
独特の空気が支配する場所に郁と凛は並んで足を踏み入れた。
「白崎、準備は大丈夫ね?」
「ひゃい」
変な声が出た。
一瞬静まり返ったスタジオの空気が凛の笑い声で通常の空気に戻った。
「どんだけ緊張してんだよ。ここは緊張を俺に譲るとこだろ?」
「仕方ないじゃない。まだ慣れないんだし、私元々こういうの苦手なんだから」
「じゃあ、何でモデルなんかやってんだよ」
「こんな自分を変えるためですぅ」
そう答えると凛の手が郁の頭に乗った。
セットを崩さないように優しく撫でられる。
「そういうトコ、いいと思うぜ。頑張れよ」
「あ、ありがとう……」
そんな風に言われると照れてしまう。
顔は赤くなっていないだろうか。
ナチュラルなメイクで隠れる範囲だろうか。
「郁ちゃん。凛くん。始めるよ」
「はい」
二人は声を揃えて返事をした。
自分自身に気合を入れ直す。
並んでカメラの前に立つ。
それだと記念撮影だとカメラマンに笑われてしまった。
固まった体を動かし、自然なポーズを頭に描く。
恋人と一緒に立つ距離感。
自分が体験したこと、本やテレビから入手した情報。
それらを参考に立ってみる。
「郁ちゃんから聞いてると思うけど、凛くんの顔は写らないからね。でも、表情は大事だからよろしく」
「はい」
真面目な表情で凛は頷いた。
そして、郁の肩を抱き寄せ、微笑んで見せた。
スタッフ間で「おぉ……」と感嘆のような声が漏れた。
「凛くんはなかなかだけど、郁ちゃん、表情硬いよ」
「う、はい。頑張ります」
自分の方がプロに近い位置にいるというのに、何だか悔しい。
悔しいよりも簡単にこなしてしまう凛を素直に尊敬してしまった。
凛との距離が近い。
『恋人』なのだから、当然と言えばそうだけど、いつもより近い。
「っ……。すみません。少し時間ください!」
逃げ出してしまった。
廊下にある飾り気の無いシンプルすぎるベンチに腰を下ろした。
と同時に深い溜め息が零れ落ちた。
視界がゆらりと揺れる。
鼻の奥がツンと痛い。
ここで泣いてしまうなんて、完全に子どもだ。
それだけは避けたい。
近づいてくる足音から逃げなくてはと思ったが、動くことすら億劫だった。
頭に乗ったひんやりとした何か。
伸ばした手に触れたのは、缶だった。
「……?」
手のひらに乗っかったのは、スポーツドリンクの缶。
それを凝視した後で、その人物へと視線を向ける。
「凛くん……」
予想通りの人物がここにいた。
けれど、郁の心は痛むだけ。
ただでさえ無茶なお願いをしているのに、自分が足を引っ張ってどうする。
こぼれそうなため息を唇を噛むことで堪えた。
「郁」
唇を噛んでいては返事ができない。
躊躇いがちにそっと開く。
「何?」
消えてしまいそうな小さな声だった。
情けない声だった。
涙がうっすらと膜を貼る。
このまま消えてしまいたいとも思ってしまう。
そういう逃げ道を作る自分が本当に情けなくて嫌いだった。
「俺、郁の力になれねえのか?」
「……え?」
驚いて凛の瞳を見詰めてしまった。
綺麗に輝くその瞳が真っ直ぐに郁を見ていた。
ほんの少し寂しそうな色を滲ませて。
「やっぱ。恋人役なんてなれねえのか?」
「そ、そんなことない! そんなに詳しい訳じゃないけど、凛くんの彼氏姿すごく素敵だったから! 女の子ならみんなときめくよ!」
「……郁も?」
勢いに任せて凄いことを口走った気がする。
冷汗がたらりと漫画のように流れた気がした。
「郁?」
そっと追い詰められ、逃げ場を無くす。
早く逃げろと頭が警鐘を鳴らす。
心臓が壊れそうな速度で動き回っている。
「あの、凛くん、ちょっと離れて……」
「郁」
離れて欲しいと訴えようとしたその瞬間に顔の距離を縮められた。
心臓が壊れてしまう。
身体が溶けて消えてしまいそうだ。
「り、ん、くん……」
声が出てこない。
これ以上はごめんなさい、な距離を凛は簡単に放した。
まるで何も無かったかのように。
その背中はいつもと違って見えた。
「凛くん」
今度は自分からその距離を埋める。
そして、そっとその手に触れた。
あったかい手だった。
郁が緊張しすぎて手が冷たかったからかもしれない。
「ありがとう、凛くん。私、頑張れそうだよ」
「……頑張らないと許さねえよ」
「……うん」
撮影現場に戻ると最初に頭を下げた。
それから再開を申し入れる。
「いい気分転換になったみたいだし、行こうか」
軽い注意の後で撮影は無事に再開された。
郁は凛の手を握り、ちょっとそっぽ向く。
照れくさくて顔を合わせられない初々しさ。
それは『初デート』というテーマに沿っている。
二人の小さなドキドキはきっと写真に詰まっただろう。
スタッフに見せられた写真に郁は照れくさくて走り出しそうになったのだから。
(2016/08/01)