この運命はあなたのものです


赤い空が世界を塗りつぶすのではないかと思える程にまばゆい光を放っている。

夕刻の鐘に急かされるように、子どもたちは自宅へ走る。

そんな時間に、ソレはワイルダー邸へと持ち込まれた。


「……スパイ、ねえ」


ゼロス・ワイルダーは長い髪をかき上げ、ため息交じりにその言葉を繰り返した。

王都メルトキオに『スパイ』が潜り込んでいるというのだ。

何のスパイだとか、何が目的かなど聞くまでもないだろう。


「アンジェちゃん、どう思う?」


上手く景色に溶け込んでいたつもりだった。

突然話を振られ、肩が大きく震えた。


「……返事」

「は、はい。すみません」


トレイを胸元で抱いたまま頭を思い切り下げる。

アンジェ・セレナーデ。

平民出身、現在ワイルダー家の下っ端使用人。


「どう思う?」


ここに来て日の浅い下っ端に聞くことではないと思いながらも、そんなこと言えない。

素直にわからないと答えるのが正解だろう。


「今すぐに行動を起こさないと思っている、でしょうね。私たちが彼ら……彼女ら、かもしれませんが。とにかくその存在に気づいたとばれていても、行動を急いたりしないと思います。慎重にことを進めるのではないですか。彼らも愚かではないと思いますから……あ。あの、すみません!」


自分は何をぺらぺらと適当なことを言っているのだろう。

頭を思い切り下げる。

バカを披露するにしても、場違い甚だしい。

顔が真っ赤に染まり、手が震えてしまった。


「すみません、ごめんなさい!」


同じ言葉を何度も繰り返して、アンジェはその場から逃げ出した。

やってしまったという激しい後悔がぐるぐる渦巻いて首を絞めにくる。

呼吸が苦しくなるのは、精神がやられているから。

短い溜め息を吐き出して、アンジェは日常業務に戻ることにした。

忘れるには記憶の上書きが最適だから。



***



数時間が経ち、そろそろ立ち直り始めた頃、アンジェはゼロスの部屋を訪れた。


「ご主人さま」


名前でなんて恐れ多くて呼べない。

アンジェはいつも彼をこう呼んでいた。


「何?」


報告書から目を離さずに声だけ向ける。


「私、スパイに会ってきてもよろしいですか?」


突然すぎる発言にとらえられたのだろう。

ゼロスの動きはぴたりと止まった。


「アンジェちゃん、知ってるの?」

「はい。心当たりはあります」

「君は誰?」

「アンジェ・セレナーデ。ただの使用人です」

「嘘はいいよ。俺さまもよく嘘つくけどさ、アンジェちゃんは嘘なんて知らないくらいの娘でいてほしい」


そんな純粋な人間でいられるような人生は過ごしてきていない。

汚いことだって知ってる。

汚いことだってしてきた。

人間の醜さに絶望したこともある。

それでも、ヒトは美しいと思っている。


「……行ってきます」


ゼロスはアンジェが出て行くのを止めなかった。

ただ黙って見送った。

アンジェは一人、夜の闇が塗りつぶす王都を歩いていた。

こんな時間に女性が一人で歩くのは危ないだろうが、そんなもの気にせずに真っ直ぐ歩いた。

まるで待ち合わせをしていた一人であるかのように、アンジェはそこに加わる。


「私を知っているでしょう?」


顔を隠した数人に声をかけた。

すっと手が動く。

使われたサインを読み取れる自分は一体何者なのだろう。

幼い頃の記憶がすっぽり抜け落ちている。

それを不便だと思ったことはないけれど、今は不満に思う。

自分は『ただのアンジェ・セレナーデ』でいたかったから。

ただの『アンジェ』ならば、ゼロス・ワイルダーの傍にいられるから。

それは望みすぎかもしれない。

アンジェを見極めるようにじっとしていた彼らがサインを送る。


「……私は、自分が何者かわからない。だけど、守りたいものがある。それを邪魔するのなら……」


送られたサインは驚かずにはいられないものだった。


「それが……目的? それって、スパイっていうより……」


ふわりと笑い声が聞こえたような気がした。

ワイルダー邸に戻ってきたのは、外出を告げてからそう時間が経っていない頃。

思ったより早く帰って来られた。


「おかえり、アンジェちゃん」

「ご主人さま……」

「ゼロス、でいい」

「……?」

「いや、そんな不思議そうな顔しなくても」


苦笑を浮かべたゼロスもやけに絵になる。

綺麗だと思ったのだ。

ズルいとも思った。


「ゼロス様。私を好きに使ってください。どんなことでもします」

「ちょっと、アンジェちゃん。そういうつもりじゃなくて……」

「貴方のお役に立ちたいんです。拾ってもらった恩を返したいんです」


それは嘘偽りない本心。

投げやりになっているわけでもない。

自分の意思を捨てたわけでもない。

ゼロスの力になりたいというのが、アンジェの望みだった。


「ふう。わかった。じゃあ、まずは料理の特訓しようか。それから、社交界デビュー? あと……」

「ちょっ、ゼロス様。一体何の話を……」

「え? 俺さまの役に立ちたいんだよね? だったら色々必要でしょうよ」

「……」


何か誤解されているような気がする。

ゼロスの役に立ちたいのであって、彼の隣に立ちたいわけではない。


「アンジェ。ついてくるだろ?」


差し出された手を躊躇しながらも、しっかり握った。



この運命はあなたのものです



title:OTOGIUNION



(2015/09/11)


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