世界が泣いている。


ふと気がつけば、ぼんやりとした空間に立っていた。

すべてが曖昧に映る不思議な空間に。

辺りを見回してみる。

何もない。

人の気配もない。

見た事のない場所だ。

混沌の闇とも呼べるのだろうか。



その空間に、ふいに白い光が現れた。

それは、人の形を作る。

頼りなく揺れる光が消えた。

そこにいたのは、同じ年頃の女性。

このおかしな空間で、唯一見覚えのある存在だった。


「……っ」


名前を呼ぼうとした。

けれど、音になる直前に、それは消えた。

彼女の名前が、思い出せない……。

必死に記憶の糸を辿る。

しかし、それは更に記憶を曖昧にするだけに終わった。



――オレは本当に彼女を知っているのか?



知らない人物を知っていると思い込んでいるだけではないのか。

自分の物ではないと思えるほどに、混乱する頭。
 
ユーリは額に手をつき、膝を折った。



――そうだ。彼女は白いワンピースを好んで着ていた。



ふと、思い出した。

白いワンピースを着て、笑う彼女。

くるりと回り、裾を翻す彼女。



――間違いない。



ユーリは確信する。

自分は彼女を知っていると。

瞳を閉じて思い出そうと、努力する。

少しでも、彼女と繋がる情報を。

けれど、上手くいかない。

思い出そうとすればするほど、記憶は消える。

思考を諦めようとしたその瞬間、風が吹き抜けて行くかのように、思い浮かんできた。

彼女との思い出が。


料理をする彼女の後ろ姿を見た記憶がある。

焼きたてのパンとアップルティーの香りも思い出せる。

怒った顔も、拗ねた顔も、笑顔も、泣き顔も。

彼女の体温も、匂いも……。

優しい声が甦るほどに、感覚として、覚えているのに。
 
彼女の名前だけが、思い出せない。

それはまるで、じわじわと首を絞められているかのような、気持ち悪さ。



今までただそこにいて、何も言わなかった彼女が、近づいてきた。

どこか悲しそうな微笑みを浮かべている。

彼女はそっとユーリの頬に触れた。

冷たい手。

すごく冷たい。

けれど、懐かしい手。


「ユーリ」


凛とした声。

記憶と違(たが)う事のない彼女の声。


「ユーリ」


もう一度、彼女は名前を呼んだ。

返事をしようとするが、声が出なかった。


「ずっと、ずっと……好きだよ。ありがとう」

「……」


声が出ない。

彼女はすべて分かっているかのように、微笑んだ。

何とか言葉を伝えようと口を動かすが、彼女は頭を振ってソレを拒絶した。


「ありがとう。さようなら」


彼女の手が離れる。

繋ぎとめようとしたが、体が動かない。

必死に手を伸ばそうと動かすが、それは思い通りにはならなかった。

彼女を引き止めなければ。

伝えたいことも、訊きたいこともたくさんある。

何とか彼女を……。



「アンジェっ!」


咄嗟に出たのは、思い出したかった彼女の名前。

そうだ、アンジェだ。

何故、忘れていたのだろう。


「アンジェ!」


名前を口にしたことで、すべての感覚が自分の手に戻ってきた。

離れた距離を埋めようと手を伸ばす。

が、そんなユーリを嘲笑うかのように、距離が広がった。


「アンジェ!」


三度目に彼女の名前を呼んだ瞬間、大粒の雨が降り出した。

すべての音を消し去るかのように、激しい雨音。


「アンジェ」


届かないと分かっていても、名前を呼ぶ。

それは、二度と忘れないようにと、刻むように……。

すべてが、激しい雨に飲まれていく気がした。

何もかもが消えてしまうような気がした。

それでも、忘れないように、アンジェの名前を何度も繰り返した。



***



「ユーリ。ユーリ、大丈夫?」
 
「ん。あ、ああ……」


カロルに声をかけられて、頷いた。

いつの間にか“現実”に戻っていた。

若干ダルいが、それ以外は何も変わった所がない。


「アンジェ……」

「アンジェ? 誰の名前?」


不思議そうに、けれど好奇心が詰まった瞳に、答える。


「すごく大切な人……だろうな」

「恋人とか!?」

「うーん……どっちかっていうと、憧れている人……だな」

「憧れている人?」


その先を尋ねてきたが、曖昧に笑って誤魔化した。

カロルもそれ以上訊かなかった。

ユーリは窓の外へ視線をやる。



――アンジェ。

いつか必ず会いに行くから。



空に広がる蒼と、約束を交わした。



世界が泣いている。

(違う。キミが泣いているんだ)



up 2008/11/11
移動 2016/01/24


 

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