保健室からHappy end☆
※精神的に弱い女の子と香介の話
※読む人を選ぶと思うので、要注意
みんなと一緒に勉強がしたくて、
みんなと一緒におしゃべりがしたくて、
ただ一緒にいたくて……。
そんなささやかな願いさえ叶わない。
苦しくて、
苦しくて、
苦しくて、
苦しくて、
苦しくて……。
とても……悲しくて……。
私なんていなかったら、良かったのに。
私なんていなくなってしまえば、良いのに。
この世から消えてしまいたい。
私なんて……誰にも、何処にも必要ない。
このまま……
サヨナラって言って……
アリガトウって言って……
空に……なりたい。
***
三限目の授業開始のチャイムが鳴り響く。
それを聞きながら、少女・色瀬杏樹は寝返りをうった。
クリーム色のカーテンで仕切られた保健室のベッド。
保健室特有の臭いが鼻をつく。
しかし、それは嫌悪感を伴うものではなかった。
何度目かの寝返りをうつ。
気分はだいぶ落ち着いていた。
一時間程前に感じていた吐き気も治まっていた。
「やだな……」
呟かれた言葉は一人きりの保健室に消えた。
体調は悪くないけど、胸が苦しかった。
――ガラガラガラ。
保健室の扉が開く。
先生は昼過ぎにしか戻らないと言っていた。
用事があると大変だ。
杏樹は起き上がり、カーテンを開く。
扉に目をやると、一人の少年が立っていた。
赤い髪。
耳にはピアス。
杏樹は反射的にカーテンを閉めた。
「あ、あのっ。先生はお昼過ぎまで戻らないみたいです!」
早口に告げる。
「いや……別に。俺、サボりだし」
近づいてくる足音に、杏樹はぎゅっと瞳を瞑った。
「あのさ」
その少年は、カーテンの間近で向こう側にいる杏樹に声をかける。
「っ……」
「俺、とって食おうなんてしないけど」
遠慮がちに話しかけるその声。
杏樹はゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「俺、浅月香介って言うんだ」
彼はそう名乗った。
「……ベッドなら、隣、空いてますよ」
杏樹はまた早口に言った。
「……。サンキュ」
暫く沈黙した後で、カーテンを閉める音がした。
「はあ……」
ようやく落ち着いた鼓動に、杏樹は少し安心した。
「なあ?」
だが、彼の呼びかけに再び体を強ばらせる。
「は、はい」
「体調悪いんだったら、寝ろよ」
幼い子供に話しかけるような優しい声。
杏樹はずっと立ちっぱなしだった自分に気づいた。
「そう……ですね」
ふとんの中に潜り込む。
ドキドキが止まらない。
緊張している自分を認めざるをえなかった。
“落ち着け”“落ち着け”と呪文のように何度も言い聞かせる。
ふとんを持つ手に力がこもって、泣きそうになった。
「あのさ」
隣から聞こえてくる声。
「寝てるんだったら、俺の独り言でいいんだけど……」
ムリに聞かなくていい。
そう言われている気がした。
何だか安心できて、少しだけ彼の言葉に耳を傾けた。
「俺の知り合いにさ、人使いの荒いやつがいるんだよなぁ。あれしろ、これしろってさ。全く……顔見る度にそんな事を言いやがって。俺はお前の何なんだってんだよな」
香介は他愛のない事を話し続けた。
杏樹が相槌をうつ事はなかったが、彼の話をじっと聞いていた。
授業終了のチャイムが鳴る。
「そろそろ戻らないとヤバいか」
香介は少し焦ったように呟いて、カーテンを開けた。
「また会えたら、俺の話聞いてくれよな」
最後にそう言って保健室を出ていった。
再び静寂に包まれる保健室。
それは当然な環境のはずなのに、杏樹は少し寂しく感じた。
――ソレハ「彼」ノセイ?
***
翌日の9時30分。
杏樹はいつものように保健室にいた。
昨日は結局あの後すぐに帰った。
保健室のベッドの上、杏樹は何故か緊張していた。
緊張しすぎて気持ちが悪い。
――ガラガラガラ。
扉の開く音に杏樹はふとんをぎゅっと握りしめた。
「あら、どうしたの?」
先生の声。
「せーり痛。薬ちょうだい」
それに答えたのは、少女の声。
「はいはい」
棚を開ける音がする。
杏樹は少しだけほっとして息をついた。
「先生ぇ、授業終わるまで寝てていい?」
「いいわよ。そこのベッドね」
「ありがとー」
隣からカーテンを閉める音がする。
こんな会話を聞くのはいつもの事。
サボりに来る人も大勢いる。
杏樹はそんな人たちが羨ましかった。
妬ましかった。
それと同時に教室に行けない自分に苛立ちを感じる。
強クナリタイ。
誰ヨリモ。
強クナリタイ。
自分ノ為ニ。
強クナリタイ。
誰ニモ迷惑ヲカケナイヨウニ……。
「大丈夫?」
カーテンが開いて先生が入ってくる。
「……はい」
杏樹は軽く頷く。
「次の授業出られそう?」
「ムリ……みたいです」
「そう」
それだけ言って出ていく。
教室が怖かった。
その表現は正しくないのかもしれない。
気分が悪くなると、みんなに迷惑をかけてしまう。
そんな風に思うと、体が動かなかった。
授業終了のチャイムが鳴り響いた。
少しずつ騒がしくなる。
その騒がしさは保健室にも聞こえてくる。
その騒がしさは何故かとても楽しそうなものに聞こえた。
毎日、毎日同じなのに。
いつも新鮮な何かを感じる。
杏樹はふとんの中にもぐりこんだ。
何も……聞きたくない。
自分が情けなくて嫌いになるから。
だから……聞きたくない。
――ガラガラガラ。
保健室への来客数が増える。
今の時間にケガをして手当を受けにくる人。
身長を測りにくる人。
先生と話をする為にくる人。
「そろそろ授業が始まるわよ」
騒がしくなってきた保健室。
先生は生徒たちを帰した。
「どうしたの?」
「頭痛いから一時間休ませて」
その声には聞き覚えがあった。
「仕方ないわね」
溜め息混じりの答え。
「あんまりサボっちゃダメでしょ」
「サボりじゃなくて、色瀬杏樹さんのお見舞い」
自分の名前が出たことに杏樹は驚いた。
名乗った記憶がない。
何故、彼は知っているのだろう。
「あ、同じクラスだっけ?」
「そうです」
「色瀬さんはそこのベッドよ」
カーテンが開く。
「おはよ、杏樹ちゃん」
そこにいたのは、昨日会った香介だった。
「あっ……」
杏樹はそれしか言えず、ただふとんを持つ手に力を込める。
沈黙。
それを破ったのは、保健室の電話の音だった。
「はい。分かりました」
短い会話で電話がきれる。
「ちょっと用事ができたから、行ってくるわね」
「はい」
香介が返事をする。
先生が保健室を出ると、辺りは静寂に包まれる。
静かな保健室に時計の音だけが響く。
(気まずいよ……)
杏樹はふとんを握りしめ、胃の痛みが治まるように何度か深呼吸を繰り返した。
「あのさ……」
香介の一言に体が大きく震える。
「そんなに怖がらなくても……」
「ごめ……な、さい」
かすれるような声でそれだけ返す。
「体、大丈夫か?」
「……はい」
「あ、俺の聞き方が悪いな。ごめん」
香介が謝る。
「え……?」
「大丈夫だとココにいる訳ないしな」
「……」
杏樹は胸を押さえる。
変に緊張しすぎて気持ち悪い。
「俺がクラスメートだって知らなかっただろ」
「はい……」
「転校生だからさ」
「あ、はい。どうも」
杏樹は軽く頭を動かして会釈する。
そんな杏樹の反応に香介は軽く笑った。
「杏樹ってかわいいなぁ」
「何ですか」
杏樹は少し頬を膨らませる。
「かわいいって素直に思っただけ」
「かわいくないです」
「そうか?」
「そうです」
暫くそんな言い合いを続けた二人。
目が合うと笑い合った。
チャイムが鳴る。
「あ、チャイム……」
「俺、そろそろ行くな」
「うん。ありがと」
香介はカーテンに手をかける。
「あ、お昼一緒に食べないか?」
「え……」
「別に約束するつもりはないけど、昼休みにまた来る」
そう言って出て行った。
「お昼……」
杏樹はそっと呟く。
そして、瞳を閉じた。
どれくらいの時間がたったのだろう。
杏樹はチャイムの音で目を覚ました。
「色瀬さん、調子どう?」
先生が入ってくる。
「はい。大丈夫です」
上半身を起こす。
寝すぎたせいか、頭が少し重かった。
「どうする? 帰る?」
先生の問いかけに杏樹は少し考える。
体は落ち着いているが、ドキドキは止まっていなかった。
緊張していた。
「失礼します」
その時、扉が開く音と男の子の声がした。
「あら、お迎え?」
「……浅月くん?」
香介は笑いかけながら、右手に持つナイロン袋を見せた。
「食べに行こうぜ」
杏樹は暫く悩んでいたが、ゆっくりと頷いた。
「んじゃ、失礼しました」
「ありがとうございました」
香介と杏樹は、カーテンを開く先生に声をかけた。
「はーい」
暖かな陽射しが心地よい中庭。
杏樹と香介は、木陰に腰を下ろした。
「杏樹は何食べる?」
そう言って、差し出すナイロン袋。
袋の中には、パンやおにぎり、デザートや飲み物などたくさん入っていた。
「……もらってもいいの?」
「当然。好きなの選んで」
その優しさが嬉しくて……
だけど、痛くて……。
「杏樹……?」
気づけば、涙が溢れていた。
歪む視界。
その先にいる香介。
「……で」
「え?」
本当に小さく呟かれた声。
香介は反射的に聞き返した。
「お願い……、優しくしないで……」
辛うじて聞きとれた杏樹の声。
「私……何も、できないから。私に与えようとしないで」
杏樹は顔を伏せたまま、絞り出すかのような声で話す。
「私なんか放っておいてよ」
――きっと傷つけてしまう。
――私の傍にいたら。
――私は応えられない。
――弱いから……。
――現実から目を逸らす事しかできないから。
「杏樹」
低くなった香介の声。
――きっと、怒っているんだ。
――私が自己中心的だから。
――甘えてるから。
――……弱いから。
杏樹は顔を上げない。
今は香介を見る事ができなかった。
「杏樹」
香介はもう一度その名を呼ぶ。
風に乗って舞う言葉。
自分の名前ではないようなきれいな響き。
杏樹はゆっくりと顔を上げた。
「私っ……怖いの。私がここにいる事で誰かを傷つけているみたいで」
香介が話すより先に杏樹が口を開く。
そんな言葉に香介は耳を傾けた。
「私なんて、いなきゃいいのにってずっと思ってた」
頬を伝う雫がまた地面を濡らした。
――不安……だった。
――怖かった。
――「生きる」事がこんなにも怖いなんて考えた事がなかった。
――人の輪の中にいるのが、安心できるようで、本当は不安だった。
――誰かにイラナイと言われるのが。
――笑われるのが。
――溜め息をつかれるのが。
――怖かった。
「私さえいなければ」
そう思う場面にどれほど直面してきただろう。
死んでしまいたい、
消えてしまいたい、
何度そう思った事だろう。
「私っ、私……」
溢れた気持ちを全て吐き出そうとする杏樹。
一度開いた口を閉じる事ができなかった。
口に出す事で不安はさらに心の奥へと浸食する。
「……っ!?」
気がついたら、杏樹は香介に抱きしめられていた。
「自分を否定するなよ」
耳元で囁かれた言葉。
「っ……」
涙が次から次へと溢れ出す。
杏樹の頭をなでる香介の優しい手。
「甘えたかったら、甘えたらいいだろ。ヒトなんて皆弱いんだぜ? 杏樹」
「な……に?」
杏樹はそっと顔を上げた。
視線がぶつかる。
「大丈夫」
濡れた瞳に映ったのは、香介の笑顔。
――私、ここにいてもいいんだよね……?
***
翌日、八時過ぎ、月臣学園高等部正門前。
「……やっぱ、ムリなんだろうな」
「何が?」
香介の呟きに返してきた声。
「杏樹!?」
「おはよ、浅月くん」
香介の目の前にいたのは杏樹だった。
「一緒に教室まで行ってもいい?」
そう尋ねてきた彼女に香介は力強く頷いた。
少しずつ歩いて行こう。
焦らなくていいから。
ゆっくり、
ゆっくり、
君のペースで。
up 2004/07/10
移動 2016/01/20
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