あなたの掌が世界のすべてだった


柔らかな、とても穏やかな風がふわりと若草色のカーテンを揺らす。

ほんのり色づいた風に溶けるのは花の匂いか、香ばしい焼き菓子の匂いか。

そろそろお茶の時間かとディオは腰を上げた。

過去の大戦――人魔戦争について書かれた分厚い資料をサイドテーブルに置き、部屋を出る。

柔らかな絨毯の上を歩く速度はやや速い。

無意識のうちに上がる速度は、顕著にディオの心情を表していた。

楽しみでたまらない。そんな彼の心を……。

目的の場所でディオは足を止めた。

やけに緊張している気がする。

日課になりつつあるそれに緊張する必要なんてないはずなのに。

それとも、いつ終わるともわからない幸せな日々に恐怖しているからなのか。

頭を振ってそんな考えを追い出した。

目の前の扉を軽く叩く。

中から聞こえた返事は花のようで、心臓が切なく跳ねた。


「ディオ。待っていました! 今日は少し遅かったですね」

「そうですか? 少し資料に夢中になっていたかもしれません」

「わたしとのお茶会より、ですか?」


すねた声音のエステリーゼに思わず口元が緩んだ。

なんと愛らしいのだろう。

だめだ、我慢できない。

ついにディオは小さな笑い声をもらした。


「なっ、ひどいです。笑うことないんじゃありませんか!?」

「失礼しました。エステリーゼ皇女殿下」

「そんな呼び方は嫌です」

「そうは言われましても城内ではお許しくださいませ」


城の外には出られないエステリーゼには随分酷い言葉だと思う。

それでもそう言うしかなかった。

彼女は次期皇帝候補の一人なのだから。

愛らしいため息をついたエステリーゼはディオを部屋へ招き入れる。

そこにはもう準備の整ったテーブルが用意されていた。


「お待たせしてすみません」

「いいえ。ディオが来てくれてうれしいです。さあ、どうぞ」


椅子を勧められたところでようやく立場が逆転していることに気づいた。

随分鈍くなっている思考は苦笑程度では済まされない。


「エステリーゼ様、先にかけてください。お茶は私がいれます」

「いいえ。今日はわたしがいれるんです。ディオをもてなしたいと思ったんです。ですから……」


やらせてほしい。やりたい。

そんな彼女の気持ちがドキドキとわくわくを生み出している。


「わかりました。お任せします」

「ありがとうございます! わたし、がんばりますね」


メイドが用意したであろうポットを手に取り、琥珀色の液体を優しく注ぐ。

ふわりと漂う香りに心が穏やかになる。


「……幸せの色、ですね」

「はい?」

「いえ……。その、忘れてください」


恥ずかしい発言をしたという自覚はあった。

随分夢見がちな幼子のような言葉。

でも、それが嘘だったわけではない。

彼女と共にいるだけで、色も匂いも音も世界ですらも幸せの形に変わるのだ。

依存してしまっているのだろうか、彼女に。


「エステリーゼ様」

「はい」


お茶の用意を終えた彼女はディオの向かい側に座っている。

そしていつもと変わらない花のような微笑を浮かべているのだ。


「ディオ」


エステリーゼが名前を呼ぶ。

呼ばれた名前は自分のものではないかのように、どこか余所行きの雰囲気が漂っていた。

くすぐったいのだろうか、ディオの返事が遅れる。


「ディオ、聞いてます?」


愛らしく頬を膨らませた皇女様の可愛らしい抗議。


「もちろんですよ。エステリーゼ様」


ディオは立ち上がり、自然とは言い難いやや不格好なお辞儀を一つする。

それを見たエステリーゼは、愛らしい笑い声をもらすのだ。

だから上品の所作に慣れなくていいなんて思ってしまう。


「そうです、ディオ。すっかり忘れてしまうところでした」


エステリーゼはパチンと両手を軽く合わせた。

彼女が取り出したのは、繊細な細工が施された――シュガーポットだろうか。


「先日、美味しい蜂蜜を頂いたんです」

「蜂蜜……ですか?」

「はい」


それをお茶に入れようと彼女は言うのだ。

お茶もお菓子も食べるが、あまり甘すぎるものは得意ではない。

そんなディオの表情を読み取ったのだろう。

エステリーゼはにこっと笑った。


「大丈夫です。きっとディオも気に入ると思います」


数滴たらされた蜂蜜は香りを殺すことなく、それでいてそっと自身の主張もする。

控えめな香りに思わず口づける。


「! 美味しい……」

「でしょう? この美味しさを是非ディオにも知ってほしかったんです」


そんなにも嬉しそうな顔をしないでほしい。

こっちまで嬉しくなる。

自分が特別だと錯覚してしまう。


「エステリーゼ様、私……いえ、俺は好きだ。貴女とこうして過ごす日常が。不謹慎かもしれないけど、好きだよ」


普段彼女と接するよりは随分砕けた言葉。

それを聞いたエステリーゼの頬がバラ色に染まる。

うっすらと涙の膜を張る瞳が嬉しそうに微笑んだ。



あなたの掌が世界のすべてだった



title:icy



(2014/09/23)


 

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