( Mada. )








 黛くん、ほっぺたに食べかすついてるよ。にやにや笑いの上司がそう指摘してくるので、ぼんやりとした頭で頬に触れる。取れたかな、と思っていると、そっちじゃないよ、左側。と言われてまた笑われる。
 今日は盆休み前の締めを行う意味合いで、勤め先の薬局局員総出での飲み会だった。新入社員の席は局長の前と相場が決まっているらしい。局長の隣には経理の斉藤さんが着座していて、二人共が愉快そうにこちらを眺めているのだった。根っからの日本酒党である局長は、もはや手酌で無礼講を楽しんでいるようだ。二児の母である斉藤さんも、たまの息抜きなのよと言って楽しそうに局長の日本酒に付き合っている。同じテーブルの俺がそれに付き合わないわけにもいかないな、と思ったのが一時間ほど前の話だ。そのまま眼前の二人のペースに合わせるうちに、その選択を後悔したのが30分前。そこからペースを落としたとはいえ、そもそもアルコールにさほど強くもない俺の頭は完全に回っていない。
 もそもそと頬を擦ってはみるが、二人にはなおのこと笑われる。なぜだろうかと思っていると、だから、左側だよ。そっちは右でしょ。と箸の先で手を指された。俺は首を傾げて自分の手を見た。しかしこの手が右手なのか左手なのかがわからない。
 とりあえず逆の手で頬を擦ると、ウン取れた取れた。と斉藤さんがほんのり赤くなった頬で笑う。そうか今頬にある方が左手か、と思いながら、左右の判断もつかないのでは危ないのではないかな、という考えも頭をよぎる。酒宴はまだ始まって一時間ほどだというのに、情けない話だった。しかしそもそも日本酒など飲み慣れていない。そしてきっと眼前にいるこの二人は、かなりの酒豪であるのだろう。今更になって理解する。…新入社員が局長の前に座るのは、局長たちが新入社員の酒量をはかるための通過儀礼、のようなものなのだと。
 右手と左手を交互に眺めていると、黛くんだいじょうぶ? と局長が声をかけてくる。だいじょうぶかと言われるとおそらくはだいじょうぶではない。え、と、そうですね、右と左がわからなくて。答えると、一瞬目を丸くした後に二人は爆笑した。隣のテーブルの上司たちも何だ何だと注目してくる。いまそれほど面白いことをいった覚えはない。困ったな、と思いながら手を下ろす。
 笑いながらも、無理させちゃったかなあ、ごめんね、タクシー呼ぼうか。なんて局長が言うので、俺は途端に恐縮した。え、いえ、あ、左右がわからないだけで、その。言いながら既にしどろもどろで混乱する。高校時代に戻ったみたいだった。しかしそれに恥を意識する程頭は冴えてもいない。
 隣のテーブルにいた上司が寄ってきて、大丈夫よ、新入社員はみんな通ってる道だから! 私は一時間半は保ったけど、吉村くんなんか30分でリタイヤだったわよねえ。とけらけらと語った。吉村さんは俺の一代上の先輩だ。下戸と自称するだけあって、今日もソフトドリンクしか頼んでいない。件の吉村さんがそれは忘れてくださいって言ってるじゃないですか! と隣のテーブルで声を挙げるのを眺めながら、どうしようかと思案する。だが思案するまもなく、タクシーお願いしてきたからね。寄り道しないで帰るのよ。と斉藤さんが声を掛けてきた。
 後から考えれば完全に子供扱いだったが、それを咎める頭はそのときの俺にはなかった。申し訳ないです、と恐縮するのが精一杯である。まもなく店にやってきたタクシーにあれよあれよと詰め込まれる頃には、支払いを有耶無耶にされまんまと奢られてしまっていることにすら気付かないほどに出来上がってしまっていたのだった。




 アパートの手前で停まったタクシーから降りると、二階の自室には電気が灯っていた。別に驚くことでもない。不在のときにうちに入り込める奴がいるというだけの話だ。来るだの来ないだのの連絡もめんどうになって鍵を渡した。それからどうにも体よく入り浸られている気はするが、嫌なわけではないのでそれに言及したことはない。
 今俺が住まいとしている住所は、高校の時から変わっていない。1DKのこじんまりとしたアパートだ。別にこの部屋に執着があるわけではないが、単純に引越しの面倒さが勝っただけである。住むのに不自由がなければどこでもいいというのが本音だ。
 階段を登る足が重くて億劫だな、と思いながら、手すりに体重をかけて登り切る。足に来るほど飲み耽ってしまったためしがなくて、対処のしようもわからなかった。自室のドアの前で立ち止まる。どうやって開けるのだったかと思案して、タクシーのドアは自動で開いたな、と思う。自室のドアが自動ドアだった覚えはないので、どうにかして自力で開けなければならない。しかし何故かはわからないが開け方がわからないのだった。正直もうへたり込みたいくらいにぐらぐらとしていて、なぜ自動ドアではないのかと泣きそうな気持ちになった。ひたひたと触ったり引っ掻いたりしてみるが開かない。俺は途方に暮れる。俺はドアひとつ開けられなくなってしまった…と暗い心地で立ち尽くすうち、ふと、眼前のドアががちゃりと音を立てた。ドアノブが回る。少しの隙間が開いて、中から、…誰。と怪訝な声が届く。少し掠れたひくい声。





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