( Mada.02 )
…すばる? 俺は反射で呟いた。そうだ電気が点いていたのだから、中にはすばるがいるのだった。は? しろ? 声は些か驚いたように跳ねて、そのまま大きくドアが開く。…なにやってんのオマエ、つかなんで自分で入ってこねーの。鍵閉まってなかっただろ? 室内の明かりを背負って逆光だったが、眼前に現れた相手は呆れた顔をしていた。呆れられているとは気付いたが、俺はそれどころではない。もう二度と開けられないのではないかと思っていたドアが開いたのだ。かつてこれほどまでの安堵を覚えたことがあっただろうか。衝動のままに目の前の相手に抱き付く。ふらふらする足も限界だった。は、ハァ!? 肩のあたりですごい声が挙がる。俺は気にせず体重をかけた。そうしないとまともに転びそうだったからだ。そのせいで相手もよろけたようだったがこらえたらしい。
何、お前、急に。困惑したような声。肩を押して引き離そうとする力に背いて、俺はぐいぐいと肩口に頬を押し付ける。背後では、惰性でドアの閉まる音がした。
…俺、二度と中に入れないかと思って。ぽつり、と呟くと、ハァ? とまたもや疑問の声が挙がる。この男の機嫌を損ねることは得策ではないから、俺も言葉を重ねた。ドアが…自動じゃなくて、俺。自動じゃないけど、開かなくて、でも、開いた。よかった。喉が焼けたみたいに掠れてうまく声が出せなかったが、相手には届いたらしい。…お前何言ってんの? 心底困惑しているような声音である。いまいち意図が伝わっていないらしいことに俺も若干困惑したが、思えば普段からお互いに意思疎通の取れるほうではなかったと思い返した。
だから、俺。お前がいて、うれしかった。簡潔に言い直す。すると遠慮なしに肩を押しのけようとしていた手の力が緩んだので、俺は安心して相手に凭れた。タクシーの容赦ない冷房で冷えていた体には、その体温が心地いい。そのまま遠慮なしに体温を搾取していると、…お前、酔ってんの? そう問われたので、うん、と返事をする。飲み過ぎたのは事実だし、足がふらふらなのもまた事実だ。
肩の上で盛大なため息。すばる? 声を掛けると、こんどこそ容赦無い力で引き剥がされた。ぐら、と視界が揺れて目が回る。拠り所をなくして咄嗟に相手の服を掴んだが、そんな支えではどうしようもなくてそのまま床にへたり込んだ。体がまるでいうことをきかない。自らの体の扱えなさに驚いて相手を見上げたが、相手もまた、俺のこの有り様に驚いた顔をしていた。意識では、いつもよりぼんやりとはしているが、立てなくなるほど酩酊しているつもりもない。が、実のところまるで両足に力が入らなかった。自分のことなのに自分で首を傾げる。すばるの服はこんなにしっかり握れているのになあ、などと思っていると、また頭上から盛大なため息が降ってきた。そのまま無言で腕を引っ張りあげられて、俺はよたよたと膝立ちになる。何をするのかと非難の目を向けるが、相手は意にも介さずぐいぐいと俺を居間へと引き摺っていった。慌てて俺は声を挙げる。す、すばる、すばる。靴、靴が。片手で脱ぐこともできずに台所の中ほどでわたわたとしていると、なんなんだよもう、めんどくせえなあ! とうんざりした声が聞こえた。そのまま乱雑な手が近付いて、俺の足から靴をもぎ取っては玄関へと投げる。些かむっとして、何をするんだ、ものをだいじに、と突っかかってみるも、うるせえよ、文句あんなら自分で歩けバカ。と投げ捨てられてしまう。ぐうの音も出ずに俺は黙った。
またぐいぐいと腕を引かれて居間まで引き摺られながら、じんわりと悲しくなってくる。自分ひとりではドアも開けられないどころか靴も脱げず、あまつさえ歩くこともできなくなってしまった。じわりと目頭が熱くなる。さほど体格差があるわけでもないし、さぞ重かったのだろう。相手は俺を安物のベッドへ投げ捨て、大きく息を吐いた。苦心して堪えたつもりだったが、ベッドに落ちた衝撃で涙が零れた。
一度出てしまうと止まらないもので、不思議なほど次々と溢れる。投げ捨てた張本人は今日一番にぎょっとした顔をしていた。自分でも正直驚いている。体はいうことをきかないし、どうやら感情統率もうまくいっていない。なんなんだこれ、と思っていると、もうなんなんだよお前! と、半ば切れ気味の声が降ってきた。何と言われても俺にだってわからないのだ。す、すばる。絞り出した声はみっともなく掠れた。…な、んだよ。相手もたじろいだ様子で答える。…すばる。
だから、なんなんだって! また怒った。もう俺の頭に統率とかそういう言葉は存在しなかった。お、まえは、いつも、やさしくない…、
…ハァ!? 尖った声がしたが、俺はもうそれどころではなかった。迷惑をかけて申し訳ないとは思っている。でも思ったところですぐにはどうしようもないことだってあるのだ。それに不満を持ったことなどなかった、はずなのに、一度口にしてしまったものは堰を切ったように溢れてくる。お、俺、俺だってちゃんと歩きた、し、わかんな、ッ、すばる、靴投げるし、俺、! 唖然としている空気は伝わってきたが、口は止まらなかった。ドア、開け、嬉しッ…、のに! ば、バカって、すばるよりバカじゃな、し、すばる、
ああ、もう、わかったから! 遮るように響いた声、と、同時に目元に触れる温度に驚いて口を噤む。反射で目を閉じたが、思いの外優しく目元を拭う指に気付いてそろそろと目を開けた。半ばぼやけた視界の中央で、しょうがねえなあ、というときのあの顔をしている。この顔をするときの相手は普段より何割か増しで優しいという統計があって、俺の薄暗かった心地は一瞬にして晴れた。我ながら現金だとは思う。けれど昔から俺が天を飛ぶも地に叩きつけられるも、すべてはこの男の言動に依るのだった。お前そんな鬱憤溜まってたわけ? 苦笑しながらぐしゃぐしゃと俺の髪を掻き混ぜる手に嬉しくなって、俺はまた勢いに任せて目の前の男に飛びついた。は、うわ、! そのまま勢い余ってもろとも床に転げ落ちる。
いっ…てえなこの酔っ払い! 俺の下敷きになりながら相手が叫ぶが、酔っ払いであることは間違いないので痛くも痒くもない。普段こんな風に触れ合わないぶん、じんわりと伝わる体温は心地よくて、離すまいと胸に頬を押し付けた。ぐず、と鼻をすすると、大きなため息と同時に胸が上下する。またぐしゃぐしゃを頭を撫ぜられて少し呼吸を止めた。…もうお前酒飲むなよ、めんどくせえから。呆れたような声が、押し当てた胸から皮膚を伝わって耳に届く。ここには心地よいものしかなくて俺は目を閉じた。…うん、…すばるが言うなら…そうする。声になっていたかはわからなかった。
俺はそのまま爆睡してしまったのだったが、朝になって覚えのない噛み痕が体に増えていることには――敢えて言及はしないでおこうと思う。
おわり
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