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「りす」「すいか」「カリフォルニア」「今の流れは亀だろ!」「ヒロトは変な空気が読めないよね」「えっ…ごめん」…………。妙なものだなと思った。今欠けているひとりがいたところで奴は喋るわけでも輪の中心にいるわけでもない。なのに、いないとなにか雰囲気が変わってしまう。妙だ。おやつをつまんで窓ガラス越しの空を見る。
そしてふいに、何かが上から下へと落ちて左へ過ぎ去るのも見た。
飛び降り自殺した人間や幽霊とガラス越しに目が合ってしまった、そんな怖い話を聞いたことがあるけど生憎うちは二階建てである。というか今のは普通に。
「おい風介!?」
わたしなんかよりも数倍早く動いていた晴矢の声。窓を開けて叫んだそれに応えた遠くからの風介の声音はどう考えても元気がない。よく聞こえなかった、何と言ったのだろうか。何と言っていたところで今の彼が外に出ていいわけがない。「なんだって?」風介のためにおかゆを温めていた手を止めたヒロトが聞くのと、晴矢がパーカーをひっつかむのはほぼ同時だった。え。なにがあったの。呑気にバラエティーを見ている場合では絶対になさそうな空気にわたしもリュウジも立ち上がる。
「ノーザンが、逃げたって」
ライトニングアクセルに覆われた視界の中で、わたしはテレビをぶち消した。
携帯も持たずに飛び出した空は重く黒く曇っている。生ぬるく生身の足を撫でていく向かい風が、サッカーをする時よりも邪魔だ。Tシャツ短パンにつっかけサンダル姿のわたしは河川敷で息を整えていた。風丸くんには見られたくないなあなんて思う。渡りきれば帝国学園の方へ行ける橋の上。
いない。普通にいない。よく漫画でみるこんな状況では、曲がり角に消えていく背中が見えたりするものなのに。寝癖すらかすめられない。普通のひとはあんな身体で飛び降りたり走り出したりしない。ましてや一番構っていなかったはずの風介が猫のために無茶するなんて。こまっちゃうなあ、なんて呟いてみる。昔から風介がそういう子だった気はしなくもない。見捨てられないのだ。変なところがお互い似てしまった。
ふいにコンクリートで塗られた地面が一段階色濃くなった。ぱたり、ぱたり、意外と耳障りでもなく広がって消える。時間のわりに人気がない理由はこれだったんだ。静かな道に水が地面を叩く音が一瞬で響き出す。猫は水がきらいだ。そして風介は、高熱を帯びた身体のまま。もうエイリア石なんてものはない。サッカーで培った体力も病原菌の前ではなすすべを持たないはず。傘も携帯も持ってはいないだろう。せめてどちらか、だれか、見つけてないかなあ。かくいうわたしも連絡手段は我が身しかなかった。一旦帰ってみよう。滑り始めたマンホールの上で方向転換したわたしは、来たルートとは別の方からわたしたちの家を目指し始めた。雲の色は風介の髪より暗い。なぜか、涙が出そうな気分だ。
河川敷の橋の下で、ノーザンは鳴いていた。まるで私を待っていたかのようだなんて思う。憎い。いくら猫だって私が体調不良なことくらいわかるだろう。大人しく抱き上げられるノーザンはどうやら生まれて以来の知らない物々にひどく怯えているようだった。自分から飛び出したくせに迷惑なやつ。せっかくリュウジが電信柱までと決めた外の世界から易々と「さらに外の世界」へ踏み込んでしまった。
どうして私が猫を助けるためだけにここまで無茶をしているのかは自分でもよくわからない。絶対に見捨てられないという確固たる、だが漠然とした意志だけでここまで来てしまった。だって。いないみたいにするのは嫌いだ。
くしゅん。少し濡れた体はさむくてあつくてよく分からない。とりあえず猫を腹に当てておく。風介すぐおなかこわすんだからってよくなまえに言われたな。今日はアイス食べてないのに壊したら、きっとなまえは今日の分を取り上げてしまうだろう。いやだな。アイス取られるの。なまえ取られるの、いやだ。あれ、寒いな。ノーザンが鳴く。ふと見た橋の外で、気付かぬうちに降る水の量が大分増していた。
傘も上着ももちろん持ってはいない。私はあとどのくらい動けるだろうか。きっともう走る元気なんてないだろう。エイリア石を使っていたころは風邪なんて引かなかったから、久しぶりすぎて以前以上に弱ってしまっている気がした。なまえたちもノーザンを探していることだろう。携帯も忘れてしまった。困った。ばか猫を抱き締めて目を閉じる。なまえ、濡れてないといいけれど。きっと私のことも探してしまっているやさしい家族を想った。ヒロトはちゃんとなまえのことを守っているだろうか。
目を開ければ、雲の下にそびえ立つ帝国学園が見える。懐かしい。私と晴矢の屈辱の地。懐かしい、そう思えるほどに私はしてもらった。だれにかはずっと分かっていたのだ。大事にしてもらったことを全部、返したい気分だった。返す方法がわからない。
車が水を引きずっていく音はなぜか無性に耳に残る。完全に変色しきった服をぴたぴた言わせて玄関に駆け込むと、そこではもうヒロトと晴矢がタオルを持って座り込んでいた。あらかじめ持ってきてくれていたらしいタオルをわたしにも手渡してから短く「おつかれさま」とだけ言う。…見つけられなかったんだな。自分のことを棚に上げて落胆してしまった心を叱咤して前を向く。髪から垂れる雫が邪魔をした。目から垂れないうちは大丈夫だ。時計を見ればいつのまにか夕飯の時間帯になっていて、おなかすいたねとヒロトが笑った。うそつけ。あんたの顔は胃なんて構えていない。
「リュウジは?」
「傘持ってもう一回探しに行くって」
「お前も行くなら着替えてかっぱでも着ろ」
どうしよう。ぺしゃりとチューリップがしなびている晴矢がいつものように世話を焼いてくれなかったので、適当に髪を擦ってみた。が、全身から湧いているかのように垂れるので断念してしまった。いいや。見つかっていないのなら、そのまま走るだけだ。
ヒロトは家でごはん作ってて、晴矢はシャワーあびた方がいいよ。それだけ伝えてまたドアを引く。さっきと変わらず横殴りな線が下へ下へと向かう荒れた景色。後ろからした晴矢の制止の声はなぜかヒロトに遮られて、わたしはもう一度生乾きの髪を濡らした。
今日は大事な日だった。風介の、そしてわたしの。誰が悪いわけでもないのになんかうまくいかない、恋ってこういうものなんだ。杏たちの言うとおりだ。目を逸らした昨日の風介を思い出してポケットを握りしめる。拒否されたらどうしよう、そんなことを考える期間は終わりにしてしまいたい。家族よりも家族である風介に、内容はなんであれ嘘をつくなんてやっぱりできない。ポケットの中身がうまい具合に飛び出ないことに感謝しながら息切れにため息を混ぜた。
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