10
テレビを見たりおはなししたり何だりして入浴ローテーションが進む中、アイスを手に部屋へ戻ると後ろになにかがついてきていた。一匹じゃない、人だ。いやホラーではなくてだな。
わたしが閉めかけた扉に手をかけて後に続いてきたのは、びっちょびちょの髪をタオルでたたく照美さんだった。幽霊どころか神である。
「おじゃましますドライヤー貸してくれないかな」
「洗面所にリュウジのあったでしょー」
「えー、かわかして!」
ばたばたタオルドライしながらぶすくれる照美さん、焦れたのか擦りはじめた。あの綺麗なブロンドになんてことを…。イナズマジャパンの長髪たちを思い出した。女子としてこれはどうにかしなければいけない。ような気がする。
座らせてやっとしずくの垂れなくなった髪にターボタイプの風を当てて指を差し入れると、気持ち良さそうに目を細めた。猫みたい。ノーザンにするようにくしゃくしゃ掻き撫でたくなる衝動をこらえる。
「いつもこんな適当にしてるんですか」
「ううん、チャンスウがブローまでしてくれるよ」
「…世宇子時代はヘラ君ですか」
「よくわかったね!」
なんで切らないんだろうと手中の金糸を持ち上げて風に晒して、小さい頃リュウジに邪魔じゃないの?と聞いたことがあるのを思い出した。彼はなんと言って笑ったんだったろう。
「気持ちいいよね、乾かしてもらうの。特に女の子にやってもらうと」
「チャラいです神様」
照美さんの言葉にふっと昔の情景が思い浮かぶ。なぜかお日さま園の男は髪の長いやつが多くて、なのに基本自然乾燥だった。特にリュウジはくせっ毛でブローしないと大変なことになるのに、切らないし自分で乾かさない。だから聞いたのだ。
ああ、おんなじこと言ってたんだ。子供みたいなことを。しあわせな家族を突然なくした、甘えんぼの泣き虫リュウジ。
粗方乾いてドライヤーをブラシタイプに切り替えたあたりで「ねえ」と声がかけられた。目線を下に落とすと、あぐらをかいた照美さんが綺麗にほほえんでこっちを見ていて。いまいち似合わないそのポーズにようやくこの人が男だという実感が湧いた。
「なまえって好きな人とかいるの?」
「…恋バナ唐突ですね」
「お泊りの基本でしょ」
ドライヤーの音に負けそうになりながら、照美さんはきゃあきゃあひとりではしゃいでいる。思考の中にぽんと雷門中の眼鏡マネジっ子が出てきた。あまりの美人さに気圧されていたのは本当に最初だけである。
「同い年の男4人と生活してるんだよ、何かないのかい?」
なにかって何だ。熱くなった手を止めて考え込むと、赤い目がたのしそうにわたしの観察を開始する。
何かと言われても、最近の少女漫画的アクシデントといったらひどい。ヒロトの着替えを見てしまったとか、ノーザン追っ掛けてたらこけて晴矢を蹴り倒したとか、とにかく胸キュンとは何かがいろんな意味でちがうのだ。あ、リュウジのぱんつ見た…これも色々とちがう。
さらさら、まっすぐな髪が手の中でこぼれ落ちていく。なにかがもやもやと渦巻いている妙な感覚に襲われて、わたしは目を閉じた。
「小さい頃からずっと同じ家だから。今更ですよ」
「そうかなあ…」
つまらなそうに唇を尖らせて足を組みなおす。「はい、できましたよ」「ありがと」お礼は不機嫌じゃなく笑顔だったけど、自前の白いパジャマの裾を直すころにはまた微妙な顔に戻ってしまっていた。中身まで女の子だなんて聞いてないぞカオス組。
汗をかいた手をひらひらさせていれば、照美さんが念を押すような口調でこちらを覗き込んだ。嘆息。きょとんとしたわたしを無視して言う。
「聞いたとおりだ。なまえは強情だね」
「え、」
長身な体が立ち上がって、目の前で手の中にあった金髪がさらんと鳴った。晴矢と風介が喧嘩する声、テレビの音、照美さんの言葉。頭の中ですべてが入り交じって血の気が引くような感覚が盛り上がる。
「いつから好きかなんてそんなの、大抵みんな知らないよ」
何が言いたいんですか。出掛けた言葉は飲み込まれて脳の栄養になった。聞かなくたっていい加減分かる。
変にいじわるな顔の意味がわかった時わたしは知ってしまった。彼は知ってる。わたし以上にわたしのことを。
この家でゆるやかに変わり始めた、宇宙人の偽りと建前を捨ててさらけ始めた皆の感情を。
わたしは、風介のことが。
「…ごめんなまえ、困らせるつもりはなかったんだよ」
「……こちとら幼なじみどころか家族ですぞ」
「うん、そうだね」
ひたりと頬に当てられた両手がつめたくて目を閉じた。そう、閉じていただけだったのだ。視界から外して、分からないと思い込んでいた。家族愛を知らないわたしがましてや恋愛感情なんてとか。
照美さんの手が移動して頭をなでる。本人の気付かない感情をこんな短時間で見抜くなんて神だからなのか、それともわたしが分かりやすいのか。
それにずっと一緒に過ごしていた風介はともかく、晴矢やリュウジは家族愛を、もしかしたら初恋だって知っているのだ。ならわたしを見ていてもう気付いてしまっているなんてこともある、のだろうか。
「じゃあ、おやすみ」
ぱたんという音にはっとドアを見ると、照美さんがきれいな薄い微笑で手を振りながらドアを閉めていた。引っ掻き回すだけして放置だなんてそんなのひどい、だってどうすればいいか分からないのだ。部屋の空気がいやに異質で混乱が増す。
…下に降りたくないなあ。勇みそうな肩はすっかり丸みを帯びていた。風介のものより頼りなくて、わたしと彼の違いを思い知らされる。
昔よりすこしだけ低くなった風介の声が、下からわたしを呼んでいる。兄でも弟でも、ましてや手のかからない赤子でも猫でもなんでもない。
かわいかった風介は、ずっと男だったのに。
[←] [→]