豊臣軍に属していれば、竹中殿に天晴をとなえたことのない兵はいない。見た目からして屈強な秀吉殿の隣で、竹中殿もまた常人とは到底かけはなれた文武の才を持ち、城で出会っても常時次のためのなにかを行なっているようだ。たしかに戦に休みなどないが、合間合間に開かれる茶席や句会、物見に顔を出すことは少ない。
わたしたちのような一兵卒にも物腰柔らかく話しかけてくださり、育てることにも士気を上げることにも長けた気の良い御仁だが、腹の底はまったく見えない。拒絶にも感じる高貴な仮面の下に、ほんとうに人間がいるのだろうか。こんなこと口が裂けても言えないが。

ふと目が覚めてしまいうまく寝入れない早朝、そんなことを考える。いい機会だから自隊の軍師にお借りしっぱなしの兵法書でも読もう、と褥から出て庭園の隅を歩いていると、遠目に薄紫の小袖が見えた。石段に無造作に腰掛け、なにかを読みふけっている。……竹の姫だ。先程までちょうど後ろめたいことを考えていたものだから、おもわずなんとなく構えてしまった。朝餉もまだ始まらぬ時間にひとり、おそらくは自分と同じ境遇でこの静かな自然にたどり着いたのだろう。

竹の姫、といつから誰から呼ばれるようになったのかは知らないが、まさしく先程まで人間なのかを疑っていた、竹中殿の奥方である。父君や兄君は豊臣のそれなりの武将だが、酒の席でぽろりと昔馴染みの恋愛結婚と聞いた。それを聞くと突然彼に人間味が感じられ、余計混乱する。
女武士として戦に出られることはなく、そもそも領地を出る姿を一度も見たことがない。城下の民ですら、竹中殿に妻があることを知らない。城以外の者には秘めろと兵の間で教えられているのだ。実際自分も働きたての頃は、ただの秀吉さまたちの旧知の軍師と聞いていた。大坂城に守られた、竹中半兵衛の囲い姫。

軍議の席には時折すみに参列されるらしく、一兵卒の鍛錬を多忙な夫に代わって覗きに来られることもある。竹中殿の作戦に姫のお言葉が関わっているのかは知らないが、あの秀吉様が城内に存在を許すということは、彼の富国強兵に必要などこかの要素に、なにかしらの恩恵をもたらす女人なのだとは思う。
しかしこうしてそっと眺めていると、なんのことはないただの娘である。かの昔話、なよたけの姫のごとき美しさこそないが、武家の娘らしく意志の強そうな瞳をただ一心に竹中殿にだけ向ける姿は、まあなんというか純粋に、うわーいいなあーと思う。あんなん戦も頑張れるよなあ。

ぱき、と踏みつけた木枝が鳴り、竹の姫がふっと顔を上げた。このような早朝にふたりきり、本を抱えて見つめ合う男女。こんなに出来た展開なのに。お相手はすでに胎に宝を抱えた、一途な姫君である。

「お、お早いですね」

思わずどもりながら会釈をすると、姫は兵法書をさすりながら笑った。

「目が冴えてしまって。ちょうど気になる書がありましたので……あなたも兵法書でしょう、精が出ますね」
「もったいないお言葉です!」

気になる書が兵法って。さすが竹中殿の奥方というべきか、このような方だからこそ奥方なのか。彼女の読む書はちらと見るだけでも自分の抱えるものより複雑で、希少そうなものだった。

「この場所、静かでいいですよね」
「そ、そうですね」
「静かなあまり、門からこっそり敵国が入っていてもいまいち伝わりませんけどね」
「姫……縁起でもない」

姫はからからと笑って、門のある方角を見た。その視線ではたと思う。竹中殿は今、すこし離れた国境のいざこざをまとめに幾日前から城をあけているのだ。明るく笑む裏側には、やはり身重のからだで夫の命を想うことの難しさがある。しかも相手があの軍師じゃあ並みの兵とはくらべものにならない。
藤色につつまれた姫の腹は、いかにもたいせつなものが詰まっています、と誇示するように膨らんでいる。まだ子を為したことのない自分には到底分からぬが、このなかすべてに彼女の愛がこもっているのだろう。姫の竹中殿への態度からして、後継を「つくらされた」ようにはとても思えない。ますます竹中殿の素顔は分からなくなるばかりである。
こちらを見もせずに視線に気付いた姫が「そんなに眺めなくても、そのうち何が入っているかわかりますよ」と笑った。

「は、ご無礼を! ……姫はその、このままお家には帰らず御子を?」
「高潔な城にご迷惑おかけするわけにはいきませんから、離れますよ。父も早く帰れとうるさい」
「そりゃあ、この城はいつ攻め込まれるやもわかりませんし…」

姫は不服そうにぱたぱたとはらを叩いて、「半兵衛さまのおそばにいるのが一番生き長らえそうなのにね」とむくれた。
姫に促されておそるおそるそばの石段に座る。じぶんのなにかを姫に敷いていただこうにも、あいにく思いつきで出てきた自分は書ひとつしか持っていない。普段竹中殿や兵と並ぶ姫はそれなりに高貴な雰囲気を醸し出していた気がするが、いまはなんとなく「掴みきれないひと」程度の印象だ。
それにしても、身重の女人がひとり空の下とはやはりいかがなものなのか?こういうとき侍従を呼んだほうがいいのだろうか…。姫の扱いなんてわかんないな。呆けているうちに姫が「貸して」と気さくに私の書を取りあげてしげしげと見つめ始めた。夫に比べると格段に距離感がないが、ひとをどきっとさせるこの感覚は共通している。

「基礎の基礎。学び直すのはよいこと」
「は……恐縮ながら、此度の戦で軍師の補佐役に任命されまして。しかしあまり成果を上げられず」
「半兵衛さまに怒られた?」
「いえ、我が隊は石田殿の…」
「うわっ。あの子はね、優秀だけど言葉がきついね」

顔をしかめた姫はどんどん口調も砕けていく。あたりは変わらず静かで、もし石田殿がそばにいらしたら、と怯える私を安堵させるほどだ。厨から米の炊ける匂いがし始め、姫はすうっと息を吸った。今日の朝餉もひとりかあー、とごちて兵法書を閉じる。
「……恐れ多いことを伺うのですが」いまならこっそり聞ける気がする。竹中殿の奥深く、ほんの限られた一面。

「竹中殿と奥方殿は、恋愛の末に夫婦を結んだと」
「恋愛……まあすくなくとも、わたしは彼以外を視界に入れたことがないけど」

彼女はこうして、家柄や彼女自身を好む男すべてをばきばきと折ってきたのだろうか。そのうっすらと狂気にも似た意志のかたさ。たとえばいまここでどれだけ自分が迫っても、竹中殿へ向けられる愛と執着にこちらが負けてしまうだろう。これを飄々と受け止めている彼がますます羨ましいような、徐々に恐ろしくなってきたような…。姫が書を返してきて、おそるおそる受け取ったそれは渡す前よりもおもたく持ちづらくなった気さえした。

「わたしのことをどう思っているかは半兵衛さまに直接聞いて」
「む、無理です」
「ええー? 聞いたらこっそり教えてよ」

そんなの、今の自分が石田殿に褒められることよりもはるかに想像しがたい。姫はからかうようにわざとらしくがっかりしてみせた。その心中はうまく読めない。

「まあ、得ておいて損はないから、妻にしてくださったし、子を授けてくださったんでしょう」
「そんな……そんなふうには、見えませんよ」
「そう? でもなんでもいいの。あんなに美しくて強くて賢いひと、夫にできた時点で人生最高潮でしょ」
「はあ…」

聞けば聞くほど片側から恋煩っているようにも聞こえるが、竹中殿はしようと思えばいくらでもうまく引きはがせる頭脳と冷酷さをお持ちのはずである。それでも彼女を妻に選び、自分のつめる城に入れて、子をそのはらに刻んで、……? なんだか………相当おもたい夫婦の気概がしてきた。だんだんと深入りしてはいけない気配が帯び始める。もしや皆が探り回らないのは、豊臣への忠誠や、竹中殿の性格だけが理由ではないのでは…。
なんだか背中がそわそわして思わず立ち上がった瞬間、隣で姫がばっと後ろを振り向いた。驚いてたたらを踏む私を気にもとめず、姫が自分の兵法書をぞんざいにひっつかんで立ち上がる。

「半兵衛さま!! おかえりなさい!」
「エッ」
「ただいま。気配を消したつもりだったのだけれど…僕もまだまだかな」
「半兵衛さま探知能力です」

腰掛けていた石段のすこし遠くに、竹中殿がすらりと白い戦衣装で立っていた。「ご、ご無事のご帰還何よりです!」ひれ伏すごとく頭を下げたどもり倒しの私を、彼はじっと見て微笑む。

「お守りをさせたようですまないね」
「お守り!? わたしは童ですか!」
「立派な女人は朝晩しっかりと眠るものだよ」

ウグ、と口ごもる姫から重たい兵法書を取り上げて、竹中殿は嘆息すると、肩布をなびかせて改めて私の方を向く。

「ところで? 君は彼女の夫の帰還をほんとうに喜んでくれているのかな」
「エッ!?」
「はは。冗談だよ」

先程までの自分の邪推もあって全然冗談に聞こえない。彼はこのあいだ三成くんに叱られたから兵法の学びに励んでいるんですって!と姫が余計なことをいう。私の属が知られてしまう…。
「またこんな重いものを持ち歩いて」「半兵衛さまの書庫、楽しいけど暗いんですよ。気持ちまで暗くなる」「人の私物にひどい言いようだ」立ち去る機会を失っているうちに夫婦のほんわかしたやりとりが始まってしまった。竹中殿は私たちがここでなにをしていたのかまったく問わず、姫も深くは説明しない。どうせずいぶん前から聞いていたのだろう。先ほど背中に刺さった彼の気も、わざと出したに違いない。それにしても姫の褒め倒しの直後にこの飄々としたお顔である。

「予定よりもお戻りが早いですね」
「秀吉に急ぎ相談したいことがあってね。話が終わって君の部屋に行ったら、こんな刻にいないものだから」
「夜這い!」
「朝だね」
「移り気懸念しました!?」
「懸念してほしいなら、もう少し思わせぶりなことを言う練習でもしたらどうだい」
「………まあ駆け引きしたいほど飢えてないので」
「懸命な判断だ」

期せずして夫婦のやりとりを聞いている私は、立ち去る機会を伺いながらそっと兵法書を抱えた。竹中殿は他の人間と話しているときとなにひとつ変わらない口調で姫と話すが、姫は先程までの「掴めないおひと」のかおりは薄れ、いまにも飛び跳ねそうに久々の夫に話しかける姿はなんともかわいらしい。

……なんていうことを考えていると、先ほど飛んできた気をまた浴びる羽目になる。会話の間をぬって頭を下げると、姫は今日も励んでね、と小袖を振った。
背中に刺さった気は、いわばほとんど戦場に似合う類であった。移り気など何の懸念もないが気に入らないものは気に入らないよ、と、私の神経を震わす第六感があのやわらかな声で喋りかけてくるかのようだった。竹中夫婦、まったくよくわからないが、巻き込まれたくないことに間違いはない。


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