保健委員会の仕事を受け持ってもう一ヶ月が経とうとしているけれど、一回目の仕事にも二回目の仕事にも、同じクラスの相方は来なかった。
野球部の降谷くん。委員会を決められた日の顔合わせには、わたしの後ろをちゃんと着いて教室まで来てくれたけど。いや、あれは来る以外の選択肢がなかったというのだろう。あの日は一斉委員会だったから。

毎週水曜日の昼休みに、手洗い場の石鹸液を補充して回る。それがわたしたちの仕事である。緑色の液体が入ったタンクは結構重たい。受け持ったのはひとつの棟だけなので屋外に出なくていいのは助かるけれど、かよわいかよわくない以前に女一人にこれを持って階段を上がらせるのはどうかと思う。荒れた呼吸を整えながら、図工室近くの人気のない手洗い場に手をついた。絵の具で変色したスポンジがころんと床に落ちる。いいことない。

「ふるやくんって、ひどい人なのかなあ」

降谷くんとは全然話したことがない、そもそも親しくもない運動部の男子に話しかける勇気なんてなかった。一斉委員会の時は隣でずっとうとうとしていた。わたしの顔すらあんまり覚えてないんじゃなかろうか。野球部なのに不真面目なのかな。そんな雰囲気じゃないのに。でも実際仕事サボってるわけだし……。人気がないからかぽろりと文句が出た。あ、そんなことよりもスポンジ。
屈みこもうと俯いた視界が、突然暗くなった。

「………あの…ごめん」
「……………えっ」

下を向いたわたしの目先に、大きな手で摘まれたスポンジが差し出されていた。

「ふるや、くん」
「みょうじさん」

確認するように言いながら、降谷くんはびっくりして受け取れないわたしの手にスポンジを置いた。毎日硬球を握り締めているのであろう彼の手は、わたしの手を完全に覆い隠してしまうくらい大きい。こんなにまじまじと彼のことを見るのは初めてだった。

そんな彼の手は、制服姿なのに泥で薄汚れていた。昼休みも投球練習しているのだろうか。気になるままに見つめているわたしの視線を辿って「投げてた」と簡潔に言ってくれる。それ以上話が進まなかったので、タンクと彼を交互に見つめてみた。進まない。これわたしから聞かないと始まらないの?

「どうしたの、突然」
「……グラウンドで、手を洗おうとしたんだ。そしたら石鹸が入ってなくて」
「ああ、受け持ちのクラスがさぼってるんだね」
「それで、ぼくも係だったこと思い出して」

ずっと探してた。ごめんね。眉尻だけを下げて降谷くんは言った。そしてきょとんとしたままのわたしのかわりにタンクを持ち上げると、軽快な手つきでこの場の石鹸をすべて入れ替えてしまった。この一ヶ月のわたしの努力はなんだったのだろうか。

「次、行こう」
「うん……降谷くん、ちょうど石鹸入れたわけだし先に手洗ったら?」
「そうか」
「……さぼってたわけじゃなかったんだね?」 

大きな手をあわあわにして、降谷くんはこくんと頷く。クラスでも基本的に口を開かない。喋っても淡々としていて、あんまり感情が乗っていない。そんなイメージを持っていた。でも、意外と結構伝わる。口数が少ない分ストレートに。反省具合が。ひどいひとなんかじゃなかった。いや、連帯責任の仕事を忘れるのは大分ひどいけれど。タンクから開放されてずんずん歩くわたしの後ろを、そのタンクを軽々持ち上げて降谷くんが追いかけてくれる気配。男子の相方。悪くない。



降谷くんはその日から、水曜日のお当番を忘れなくなった。昼休みになるとお弁当を意外とぱぱっと終わらせて、まだデザートの果物を食べているわたしのところに来るのだ。あげたうさぎりんごをひとくちで食べてしまった降谷くんは、わたしが風呂敷を畳んだり水筒をしまったりするのをボールも弄らずにじっと見ている。最初は急かされているのかと思って焦ったけれど、彼はただ気になるから眺めているだけで他意はないようだった。
 
降谷くんが高さを合わせてタンクを持ち上げてくれるので、わたしは注ぎ口を調整して支える。何も言わずに決まったこの役割分担のおかげで、今までわたしの食休みを圧迫していた仕事は随分楽になった。しかしその空いた時間は、いつのまにかなぜか、彼の練習を眺める時間に変わってしまった。

「よかったら、見てて」

中庭と校舎裏の狭間のような隅っこで、降谷くんはわたしを日陰に座らせると言った。次の授業は移動教室だったけれど、まあふたりで遅刻だし別にいいかなんて思っていた。ひどいひとなんて評価だったわたしの中の降谷暁は、もうどこにもいなかった。

「よくここで練習してるんだ?」
「たまに。小湊くんが用事あるときとか」
「今日はいいの?」
「…いいの」

壁に投げた球がばしんと跳ね返ってくる。降谷くんはいつもより真面目な顔をしていた。うさぎりんごをねだったりする無表情とは違う空気を感じる。でもこれは所詮壁当てだ。降谷くんは豪速球投手らしいので、試合の時の気迫とはまったく違うものなのだろう。

その翌週の水曜日から、降谷くんとわたしは毎週まったく同じお昼休みを過ごすようになった。なぜか小湊くんからの提案で一緒にお弁当を食べるようになったのだ。降谷くんはやっぱり早々に惣菜パンを食べ終わって、会話に特に口をつっこむわけでもなくわたしのデザートタイムを眺めている。時折りんごだけではなくてお米も恋しそうに見ていたりする。大きいおとなしい動物を世話してあげているみたい。

「持って。上に投げて」

いつもの練習場所を陣取った降谷くんは、ある日自分の左手にグローブをはめると、わたしに球を握らせてばっちこいポーズをした。相変わらず説明と拒否権がない。急いで髪の毛をひっつめる行程を、降谷くんは静かにじっと見ている。

「フライ捕る練習だから、ふわってしてくれれば」
「ふわっ? どんくらい!?」
「…うん、このくらいでいい」

へろへろ上がる球を追って、降谷くんのグローブが右往左往する。こんなので練習になるのだろうか。はじめて触った硬球は、帰宅部で運動不足野郎なわたしの手にはいまいち収まらない。それこそスポンジでも握っていたほうが似合う。

「ごっごめんへたくそで」
「? 大丈夫」

息を弾ませた降谷くんがボールを渡しながら言ってくれる。けれども言ってもらったそばから、わたしの投球は真上から大きく逸れて上がった。グローブがボールを弾いてあてもなく転がっていく。申し訳ない。ゆるくまとめた髪の毛が耳元で擦れて鳴ってうるさいけれど、それも気にせず日陰から走り出た。
そしてなぜか降谷くんに抱きとめられた。

「…………えっ、降谷くん、ボール」
「うん」

どうしよう、つい反射でしがみついてしまったせいで仲良く抱き合う形になってしまった。いつのまにかグローブを外した手が、固まるわたしの首元をくすぐって髪ゴムを抜き取る。さらさら、鳴る音が大きくなる。制服の白で視界がいっぱい。説明がないのはいつものことだけれど、これは、どうした?「…綺麗なにおい」髪がかかって暑くなった首元に、降谷くんは顔を埋めた。

「しゃっシャンプーの匂いかな!?」
「……石鹸もいい匂いだけど、僕はこっちが好き」
「はあ…ありがとう?」
「どういたしまして?」

降谷くんはぽそぽそ喋る。蝉の鳴き始めた昼休みの学校。雑音ばっかりなのに、降谷くんのちいさな声が一番耳に近い。ささやかな鼻息がかかって小さく震えると、彼は顔を上げてわたしと目を合わせた。背中にがっしり回っていた手が今度は頬に沿う。間近で見る降谷くんは、男の子なのに、野球部なのに、きれいな肌をしていた。

「みょうじさんは、女の子だね」
「……そうかな」
「うん。だからこっちの髪型がいい」

星が散りそうなくらいそばに寄りながら、降谷くんは首を傾げて女の子だと繰り返した。(わたしより肌きれいそうなのに) わたしだけをじっと映す瞳は、うさぎりんごを乞う時と同じ潤み方をしている。頬の手が肩へ移動して髪を撫でた。やばい。何がやばいのかは知らないけど、これは、流される。

その時、助け舟のように聞き慣れた鐘が鳴った。「あっチャイム鳴ってる、次移動だよ!」慌ててしがみついてしまっていた手を離す。髪ゴムをひっかけた大きなそれもおとなしく離れていく。ほっと息をついた。彼が感覚で動く人であることはこの数週間で十分知ったつもりでいたけれど、多分まだまだわからないことがいっぱいある。

「みょうじさん」
「な、なに? あっはいボール持って!」
「ありがとう。……明日の昼休み、またここで待ってる」

じゃあ急ごう。降谷くんはボールを受け取って握りしめると、校舎に歩き出した。急かしていたはずのわたしが立ち尽くすのを置いて。……そんなやりきった感出されても。

その日わたしたちは初めて、委員会の用事となにひとつ関係ない約束をした。ただの降谷暁と約束をした。タンクを持たない降谷くんは気ままで勝手で、やっぱり、ひどい人だ。


髪を下ろして練習場所に現れたわたしに、木曜日の降谷くんは満足気な顔をして、また「好き」と囁いた。


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