秀吉さんがねねさんとわかれたとき、半兵衛さまはわたしになにか言おうとしたり、やめたりして、普段はうつくしく一筋を見通す菫水晶をさすがににごらせていた。いつも頭の中ですべてを見通し尽くし、自信と尊厳に彩られた彼が。妻を娶るときすらあっけらかんとしていた彼が。
秀吉さんの弱きは、決して半兵衛さまの弱きではない。それはきっと誰しも、それこそ秀吉さんだってわかっている。けれど、わたしは半兵衛さまのうつくしい指先で喉を潰されようとも、その剣でどこを絶たれようともよかった。
それが彼の「一番」に繋がり、わたしは彼の血肉どころか礎となれるのだから。秀吉さんと共に生きて夢を果たすことが「一番」ならば。わたしの存在が、秀吉さんのやわらかいこころを揺るがすならば。

しかし結局半兵衛さまはわたしを妻として抱えたまま、豊臣軍の幹部に就いた。豊臣軍はみるみるうちに勢力を強め、強く優しかった夫の友人は、覇王秀吉さまとなった。




大坂城から見る山々は、それはそれはうつくしかった。お堀の水にうつる陽が、時を刻むようにちらちらと白く光る。「ほんまもんの城だなあ…」「城だよ」「ウワッッ半兵衛さま!!」飛び上がった肩を両手で抑えて、真後ろに立った半兵衛さまがフフと息を漏らす。抑えつけられて振り向けずにわたしは仕方なくまた山々へ視線を向けた。

「なんだかんだあっという間に建ちましたね、秀吉さまの城」
「きみもいい邸を手に入れたね」
「いやついていけない」
「僕もだよ。信じてはいたけれど、こうして天守閣に立つとさすがに笑ってしまう。ふふふ」

秀吉さまが天下人となるには、まだまだしばらく乱世が続くだろう。いまにこの城周辺は日ノ本中に狙われる宝となる、と半兵衛さまは言った。天才軍師は昔にも増して大将のそばを離れなくなり、夫婦で共に過ごす時間はおどろくほど少なくなったが、なんだかんだとわたしも城に入り浸って、夫婦仲は決して悪くない。悪くないけれど、半兵衛さまは、新しく出会う人々にわたしのことを妻だと大ぴらに語らなくなった。

豊臣軍の弱きとならぬよう改めて学び直した戦運びは、夫はここまで見越してわたしを妻としたのだろうかと思う程度には我ながら悪くなかったのだが、結局一度もその夫に出陣を許可されなかった。
ひらけた空の下に見える山や家並みは、すべて秀吉さまの掌中にある。その頂点に君臨せしめし城にいるわたし。ウーン。わたしは腹を抱えて首をかしげる。半兵衛さまのお嫁さんになりたいだけの人生だったのに、どうしてこんなことに。

「お腹、痛むのかい」
「いやぜんぜん。とんでもないことになったねって」

半兵衛さまは、ひとつ咳をしてから抱いた肩を離した。ようやく振り返ることを許されたわたしは、彼の咳き込む表情を見ることはできなかった。
体の弱い彼は、ときどき白い肌をさらに青白くして臥せる。ともに暮らしてから数年、頻度はゆるやかに増えてきている。気付いている。もともと肺や喉の弱いお方だったけれど、確実に戦は彼の命を縮めている。武人の妻とは生きにくいものだな、とわたしはごちて、表情を朗らかに直した。

秀吉さまとは、なんとなく、気軽には話せなくなった。機会があれば軍議をするけれど、雑談をした覚えがここ最近はない。それでも、半兵衛さまの咳を気にする姿や、わたしの腹を見やる視線は、まぎれもなく秀吉さんであったころの彼で、尚更そのやわらかな部分の扱い方がわたしにはわからない。わからないなら、触れてはいけない。

半兵衛さまは城下を眺め、仮面の奥の瞳をにごらせている。いつの日か見たその色に、あ、ひどいことを言うんだ、となんとなくわかった。

「……きみと僕の関係性は、城のもの以外にあまり知らせないようにしている。他国の領主の耳にはいまだに届いていないようだ」
「存じております」
「僕はきみより早くに死ぬだろう」
「………存じておりますよ。なんなら、物心ついた時から」

竹中の御子は十を超えてもまだお身体が弱いそうね、雨が降るたびに咳で息を止めていらっしゃるって……。
幼きころ、母が話しているのを聞いた。この乱世、強いものが生き残る。心も、身体も。半兵衛さまは、人の何倍もしたたかな心で生きてきた。
武家の女ならば、すべてにおいて強くある男と添い遂げたいものなのかもしれない。でもそんなことより、名誉より権威より、わたしは竹中半兵衛という男が世界でいちばん大切だったし、しあわせになってほしい。

「敵は、わたしを豊臣軍師の妻だとは知らないと、そういうことですね」
「……」
「…………城と運命をともにすることは、許可しないと」

そんなに守るならばどうして妻になんてしたの、と思わず言い走りそうになり、唇を噛んだ。はじめに頼んだのはわたしだ。彼以外と生きていく道をいちども夢見なかったわたしへの、彼の救い。
しかし人生をともに歩むようになってすぐに、ぼんやりとわかっていたことが確信に変わった。わたしは彼にとって、彼の生きた証を遺すための道具のひとつ。日ノ本でいちばんしあわせな道具。
わたしの胎に命がきざまれたことを知った半兵衛さまは、はじめて泣きそうな顔を見せた。その幼子のような表情を見て、わたしはこの命を繋げるまで決して死してはいけないのだと、深く誓っている。

「武家の人間に課すには、なんともひどい願いだろう。恨んでくれていいよ」

半兵衛さまはそっと捨て置くような口調で言うと、わたしの頭に手を置いた。彼の中でわたしはいつまでも童のようで、それでいて、彼の掌中にある。
彼はきっとこんな豊臣覇道の拠点ではなく、山奥の邸にでもわたしたちを閉じ込めておきたいのではないか。それをせず隣に在って、自らで守ってくださるのは、彼の優しさであり、もろさである。
秀吉さまのはじまりの日、わたしを殺さなかったあの時から、彼の情はわたしとこの胎に重たく集約されているのだろうか。

「わたしもこの子もこんなにしあわせなのに? どう恨めばいいんです」「それは、この子に聞かないとわからない」「きっとあなた似の偏屈者でしょうね」「きみに似たって同じだよ」「ハア?」「おや、淑女としての躾が足りなかったかな」「富士山ばりのしとやかさでしょうが」「うーん肺だけじゃなくて耳もダメになってきたかな…」
わたしをはじめて抱きしめたときと同じ笑い声をあげた半兵衛さまの仮面の奥は、普段通りの輝きに戻っていた。


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