「こっちの大学受けるの?」

数年前の正月、彼のその問いが、わたしにはどうしても乞いに聞こえた。そのときからわたしの小指には、蜂蜜色の楔が穿たれている気がしている。





気付かぬ間に太陽はすっかり落ちて、店内のLEDばかりが輝いていた。商店街から数本道を外れた店内は、本格的に客入りがなくなりつつある。普段ならばくたびれたサラリーマンや学生たちが適当に寄っていく時間なのだが、いかんせん今日はまだ三が日。初売りの紙袋を抱えた人々もすでに帰宅して、よりどりみどりのバラエティを点け始める頃だろう。
どこを向いても灰色に締め切られた商店街とは違い、アルバイト先のこの店はお出かけ行き帰りの客を狙ってしっかりと営業していた。

「今日五時上がりだよね」
暇そうな店長が品出しがてら話しかけてくる。普段ならば閉店までぼんやりぼんやりとまばらな客を待っているのだが、今日は用事があるのだった。挨拶回りとして、祖父母の家までちょいと車を出さないといけない。もうお年玉は際どいだろうなあと胸を痛めつつ頷くと、店長は喋る内容もないほど暇だという風に、適当に返事をして業務へ戻っていった。

大学に上がっても実家暮らし、帰省ラッシュに参加することのない田舎町の夜。暖房の風を調節して遊んだりする。暇だった。ガラス越しにまた外を覗けば、破魔矢を手持ちした家族が楽しそうに歩いていく。いいなあ。わたしも彼氏と初詣とかそういうのしたかったなあ。

棚の向こうにある出入り口から自動ドアの音がして、わたしはいらっしゃいませーと条件反射の作り声を出した。五時まではあと十分もない。この客で最後くらいの勢いだろう。背の高い棚から客の姿が現れる。

「いらっしゃいま…? 蛍くん」
「……こんばんは」

すこし居心地悪そうに顎を引いて、立ったのは制服姿の親戚だった。はとこだかなんだかの遠いようで近い位置にある蛍くん。この後家に行けば会えたはずのひとりだ。

「……あの、待ってていいですか」
「あ、うん」

可愛くもないひっつめ髪であることも忘れて咄嗟に返事をすると、蛍くんは会釈をして、何も買わずに店を出ていった。会話の聞こえない位置にいた店長が物珍しそうに出口を覗いて「でっかいね、烏野か」と適当に喋った。





どたばたと支度をして店外に出てきたわたしを、蛍くんは「おつかれさま」と出迎えた。そっとホットコーヒーの缶を渡してくるので動揺する。お迎えにきた彼氏のようなことをする。近所に住んでいるのになかなか会うこともなく、進学したと聞いていた烏野の制服姿を見るのはこれが初めてだった。

「どしたの、じいちゃんち行くしょ? おばさんたちは?」
「兄ちゃんの車で先行ってる。僕は部活があったから」
「都合良く途中参加のわたしをアシにしようと…」
「まあ…うん」

久々に会うのにゲンキンなやつだ。車のキーをぶんぶん回す。蛍くんは歯切れ悪く答えると、ヘッドホンから垂れ下がるコードを長い指に絡めた。陽の沈み切りそうな景色に学ランが溶け込んでいく。頭ばっかり目立つ。昔はやわらかい金髪がかわいくてしかたなくていじくり倒していたけれど、彼は会うたびにたけのこのように伸びて、わたしの腕ではもう届かなくなってしまった。
遠隔操作で車を解錠する。蛍くんと並んだわたしの軽自動車はいつもよりも貧相に見えた。

「頭ぶつけないようにね」
「それより脚が狭いかな」
「なんかキツさ上がってない?」

明光と一緒になってからかい倒したころの仕返しをされている気分だ。隣の男子高校生が律儀にシートベルトを閉めたことを確認してからアクセルを踏む。
車掃除しとけばよかった。なにか芳香剤でもぶちこんでおけばよかった。いや、彼は多分消臭剤独特の匂いは好きではない方だろうから、よかったのだろうか。喫煙はしないから臭くないと思うんだけど、でもな。アスファルトの上に二人分の体重を滑らせながらうだうだするわたしの横で、蛍くんは静かに窓外を眺めている。ハンドルを握る手がむずがゆくなって、必死に話題を探した。

「……あっ、蛍くんのバレーさあ」
「うん」
「今日会ったらおばさんに試合時間とか聞こうと思ってて、日にちは聞いたんだけどさ」
「来るの? いいよ別に…」
「蛍くん中学ん時もだめって言ったじゃん」

蛍くんは渋い顔でこっちを見てから、「絶対兄ちゃんと応援とか来ないで」と芸人煽りのような文句を言うとまたそっぽを向いた。うちわを作って持って行く程度には応援することに決めた。

蛍くんは昔からひねくれた子どもだけれど、家が近いこともあってわたしにはよく懐いている。と思う。中学に入ったあたりからはお互いに難しいお年頃になり、小さい頃は明光の対のように姉ちゃんなんて呼んでくれていたのに、気付くと名前にさん付けになっていた。それに少しだけときめいたのを覚えている。まるで年上の彼女を呼ぶときのようだと。気付けば見上げるようになっていた、いくつも年下の男の子。

気付いている。飲食店が軒並み閉まった道上や、何の香料も纏わせていない乗用車内。すぐそばの蛍くんのすらりとした体躯から、汗の匂いもデオドラントの香りもしないこと。
車はとうに住宅地を抜けて、白の世界へ差し掛かっていた。後ろをゆるゆると走っていた地元ナンバーの車が左へ逸れていく。
「ごめん」窓から視線を外さないままで、蛍くんが囁くようにわたしへ言った。

「止めて。酔った」
「えっ窓開ける?」
「いい、寒いでしょ」

木陰に車を停めると、蛍くんは首元を煩雑に崩して、ふうと息をついた。街灯の届かない中での姿がなぜかとても扇情的に見えて息を飲む。
普段は拝むほどの暖房が妙にうざったくなった。気まずい。正直新年早々自爆事故を起こしそうで、必死にハンドルを握っていた。強張ったまま汗を滲ませる掌。力を込める先がなくなってしまった今、逃げ場のない狭い車内に、ふたりの呼吸だけが聞こえている。蛍くんの吐息は整えようとしているのか深い。なにか水でも、と運転席から体を捻って後部座席に投げたバッグを探るが、飴玉くらいしか出て来ない。息の音が消える。

「ねえ」
蛍くんの声がすぐそばで響いた。
反射的に振り返ってから後悔した。その過程で彼の大きな掌はわたしの右手首を捕まえていて、助手席の方を向く以外の選択肢が消えていた。瞠目した視界いっぱいに、かわいかったはずの眼鏡とふわふわの金髪が広がる。ちゃっかり外されたシートベルト。全然酔ってないじゃんか!言葉は出ないまま、冷静にそう思った。

「なんで乗せたの」
「…乗せるでしょ、フツー」
「なんで。行き先一緒だから? 一緒なら誰でも乗せてんの?」
「乗せないよ」
「じゃあなんなの? 僕にだったら何されてもいいってこと?」

棘を突き立てるような言葉ばかり言う蛍くんの表情は、その言葉に全然追いついていなかった。泣きそうだった。わたしと自分とどちらを責めているのかわからないほどだった。
余裕のないひとを見ると逆に余裕が出てくるというのは、どんな人間でも同じだ。急に頭と心がしっかりリンクする。掴まれた手をゆっくり這わせて繋ぐと、蛍くんはびくりと肩を竦ませてから「なに」と怒った。

「ごめんね」
「……」
「男の子乗せたの今日初めて。そんな怒んないで」
「……怒ってないけど」
「ごめんて」

怪訝な顔をした蛍くんは、一方的に絡めていた指をようやく握り返して来た。わたしの二倍はありそうな長い指。かさついて肉がない、男の人の手。蛍くんはだっこを嫌がるようになるのが早くて悲しかったなあ。逃避のように記憶が巡っていく。目の前の16歳が自嘲九割のため息をついてから「なんなのほんと」と呟いた。それはこっちが言いたかった。

元々の交通量に加えた正月効果で、先程から車通りはない。風に合わせて揺れるばけもののような木々の下、車のライトだけが場違いじみた光を放っている。こんなところで男の子と手を繋いで、なんなのほんと。年上の余裕を気取って笑ってしまいたくなるけれど、うまく出来ずに、わたしは黙って蛍くんを待っていた。

見て見ぬふりをしていたことを、なにひとつ言い逃れられはしない。年齢差の恋をする少女漫画をずっと疑問に思ってきた。踏み越えるための線はどこに引かれているのだろう。踏み越えるのが許されると、どうして思えるのだろう。きっと彼もわたしと同じ偏屈ものの血が流れている。蜂蜜色の楔がいま、ゆるやかに解けて糸になっていく。

「キスするけど、いい」

語尾を上げない言葉を投げて、蛍くんがこつんとおでこを当てた。
許可をとるくせに選択肢がない。目を瞑ってから、他の選択肢を見ていないのはわたし自身だと初めて気付いた。



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